平安京のシンボルといわれた朝堂院。平安宮の中心となる建物でしたが、その正門があの応天門です。
ここで起きた応天門の変は、日本史上有数の不可解な謎に満ちた政治的疑獄事件と言われています。
また、明治28年に平安遷都1100年を記念して建立された平安神宮では、規模は三分の二ほどのものながら、その応天門が精密に復元された姿を見ることが出来るんですね。
応天門 炎上
貞観8(866)年3月の夜、応天門は焼失します。
これには放火の疑いが持たれ、はじめに犯人だと思われたのが左大臣の源信(みなもとのまこと)でした。
平安宮の応天門というのは、大伴氏という有力氏族が資力と労力を出して造営し献上したもので、「オオトモ」の音に通じて「応天」とされました。
大伴氏にとって応天門は、まさに氏を象徴する「氏の門」という信仰を持つものであり、それを焼くということは大伴氏を呪うことに等しい行為です。
だから犯人は、大伴一族である当時の大納言だった伴善男(とものよしお)の対抗勢力であり、極めて仲の悪かった源信ではないか、ということになったのです。
ところが同年の8月に至り、大宅鷹取という氏族が、実は放火は伴善男の仕業なのだと告発しました。
そこで善男に対する取り調べが行われていたのですが、その期間に、告発者である大宅鷹取の娘が、善男の従者の伴清縄によって殺されるという事件が起きたのです。
これにより善男に対する嫌疑はさらに強まることになり捜査は本格的に進められました。
そして、伴清縄が、源信を失脚させるために善男とその子の中庸(なかつね)と共謀して放火に及んだと自白し、ついで、善男と中庸も承伏したのです。
翌9月、伴善男・中庸以下5人の主犯は大逆罪に問われましたが、死罪はなんとか逃れ遠流の刑、記夏井ら8人も縁坐によって配流の処分を受けました。
では何故に、一族の大切な「氏の門」を自ら破壊してまで伴善男は犯行に及んだのでしょうか。
仮に放火犯が左大臣・源信だということになれば、当然彼は処罰され失脚し、そのポストは空席になります。
その左大臣の席には右大臣だった藤原良相(よしみ)が昇格し、空いた右大臣に誰がなるのかというと、そう、すぐ下のポストである大納言の伴善男がなるということです。
つまり、真相は左大臣・源信の失脚を狙った善男の陰謀なのだという説が「正史」に語られる善男陰謀説になるんですね。
これは、善男という男は出世のためなら「氏の門」にも平気で放火するような人物なのだと、捉えている歴史家が多いということでもあります。
事実、善男が異例のスピードで大納言に出世することで、直属の上司や先輩たちが免職に追いこまれているという記録が残されています。
それらは国の訴訟という形で正式に手続きが取られているものもあるので、善男が官庁内で常に誰かともめていたこと、これはもう明らかなんですね。
交錯する思惑
その善男による陰謀説に対して、反対派の史家たちが口を揃えて唱えるのが、当時の太政大臣だった藤原良房(よしふさ)謀略説です。
太政大臣というのは当然左大臣よりも上のポストであり、臣下の最高権力者です。でも、だからといってその権力は決して安定はしていませんでした。
娘を天皇に嫁がせ男の子を産ませることで、母方の外祖父として権力を維持していくというのが藤原氏のやり方です。
あくまで生理的な条件に依存しているために、たまたま藤原氏に娘が生まれなかったり、天皇家に嫁いでも誰も男子を産めなかったらその権力はあっというまに消えてしまうことになるのです。
つまり、伴氏の娘が天皇に嫁ぎ男子を産めば取って代われてしまうという非常に不安定な権勢だといえるんですね。
だから、立場を脅かしにくる有力な氏族は徹底的に排除しておかなければならなかった、まして善男は右大臣のすぐ下にいる大納言だったのですから。
実は、応天門から出火したこと自体、もしくは放火があったとしても、権力者たちにはなんの関係もない偶然の出来事だったのではないかと言われています。
ただ、この偶然に起きたのかもしれない応天門の火災を、良房は最大限に政治的利用したのではないかということです。
この火災を機に、善男が何か企むだろうということを良房は察知していたのでしょう。案の定、善男は源信が犯人だと騒ぎ立てます。
そら、きたことかと、良房は素早く源信をかばい、善男を徹底的に追い詰めるために動き出しました。そこで、前述した大宅鷹取の登場です。
良房は源信をかばうことで恩を売りつけることに成功し、同時に善男の企みを粉砕したのです。
源信は左大臣にまで上り詰めた人物だと自負していたのに、結局無実の罪を疑われるという屈辱を受けることになり、病気になって憤死しました。
良房が描いた筋書き通りとするならば、まさに思う壺にことは進んでいたことになり、藤原氏の政治を掌握する立場はここから揺らぐことなく続いていったのでしょう。
血縁カリスマ
藤原氏の最高権力はこの良房の時代の9世紀の後半から、藤原頼道が支配した時代の終わる11世紀後半まで200年余りに渡って維持されていくことになります。
藤原良房は「天下の(政)を(摂)行せよ」と勅を受けて人臣で初めて摂政となった人物であり、次にその息子の基経(もとつね)が「皆太政大臣に(関)り(白)し」という詔を得て完成されたのです。
つまり、関白・摂政という、時には天皇代理という格を持った国政を代行できる権限を持つ人臣にこの国で初めて藤原氏がなったということです。
天皇のおじいちゃんという「血縁カリスマ」の大御所として君臨し、2世紀に渡って事実上この国を支配してきた藤原(北家)一族。
時代を問わず、藤原氏の有力なライバルたちもあらゆる手を使ってその席を奪おうと挑んできたことでしょう。
ですが、藤原氏はその度に巧みに他の氏族を排除し、その可能性をつぶすことに成功してきました。
それは、やはり血縁カリスマを正当性の根拠と認め、現実の政府機構は骨抜きにされるという、この国ならではの特殊事情に支えられていたのだといえるのかもしれません。