「です」と「ます」の2種類しかない
ブログを書くとき、文体を統一させるために丁寧形で書くのか、普通形で書くのかを私たちは選択しなければなりません。
いわゆるデス・マス調か、タメ語調か、どちらで書くのかといった違いといってもいいでしょう。
小・中・高の授業では、丁寧形と普通形の交ぜ書きをすることなく文体は統一しなさいと教えられましたし、交ぜ書きされた文章を実際に読んでみると、やはり強く違和感を感じます。
文の締めくくりはもっとも強く意識される部分なので、読み手は敏感に反応することになるんです。
そして、丁寧形(デス・マス調)で書くことを、いざ選んでしまうと、普通形で書くよりも文末がおそろしく単調になることに気づかされてしまうことになります。
なにしろ基本的に丁寧形には「です」と「ます」の2種類しかないんですから。
テンスの表現をときおり交ぜてみせて「でしょう」「でした」「ました」と書いてみたり、「かもしれません」とか「ちがいありません」といったモダリティ表現を使ってみたとしても、使用に制限があるので、ふと気がつけば「です」「ます」のオンパレードでブログは埋め尽くされてしまっていたりします。
最悪なのは、「です」なら「です」「です」、「ます」なら「ます」「ます」というように、ずっとどこまでも、どちらか片方だけの文末表現だけで文章を続けてしまっている状態です。
なにしろ2種類しかないのですから、そんな風になってしまうことは充分に想定できるんですね。
ですが、せめて、その片寄った状態だけは避けたいと試行錯誤してブログを書いているうちに、私はある表現法則のようなものがあることに気づいたんです。
日本語の基本文は以下の3通りしかありません。
Ⓐ名詞文 裕子は本物のピアニストです。
Ⓑ形容詞文 サッカーは本当に楽しいです。
Ⓒ動詞文 ヒロシが大きな声で笑っています。
Ⓐ名詞文の場合、「裕子はピアノが抜群に上手い、彼女こそ本物だ」という裕子に対しての褒めたたえたい思いを書き手が強く持っていることが読み取れます。
つまり、そこには書き手の判断、主観が含まれているわけです。
Ⓑ形容詞文も同じで「楽しい」「嬉しい」「悲しい」といった言葉はまさに書き手の心情が綴られているんです。
さらに、「高い」「長い」「小さい」といった形容詞においても、感情ではありませんが、話し手は見えない何かと比較して言葉を発していることがわかります。
ある表現が形容詞の働きをしているかどうかは、「程度の差」を許すかどうかで判断することが出来るんです。
「あの猫は大きい」と書き手が書いたとすると、自分のなかでイメージする猫の通常サイズと、「あの猫」を、「大きさ」という観点から書き手が比較し判断して書いているということになります。
ではⒸの動詞文はどうでしょうか。
書き手はヒロシの様子を外から見て淡々と述べているだけです。笑っていると、ありのまま伝えているだけなんですね。
そこに隠された表現法則
そして、名詞述語文と形容詞述語文は丁寧形で表現すると、文末が必ず「です」になり、動詞述語文は必ず「ます」がつきます。
ということは、非常にシンプルにその構造を捉えるとするなら、文末に「です」が付く文の場合は、書き手が主張を強調する判断が含まれた文なのだということであり、「ます」で括られた文は、その「です」文を、つまりその判断文を補足して説明するフォーロー文の役割を果たしているはずなんです。
よく「嬉しい」「悲しい」といった形容詞文で書かれると、文そのものの意味が取りにくいと言われます。
書き手の主観で語られているわけですから、そこまで書かれた文脈で書き手の心理が読み手に届いてなければ当然文意は伝わらないんです。
例として、下の形容詞文を見てみてください。
【休日、久しぶりに夢中になってボールを追いかけました。サッカーは本当に楽しいです。】
さらに、次は名詞文でみて見ましょう。
【目のパッチリした赤ちゃんが私にニコニコ笑いかけてきます。かわいい赤ちゃんですね。】
いかがでしょうか、各文ともに、「です」で括られた主張文を「追いかけました」「笑いかけてきます」という動詞フォロー文が詳しく説明をかぶせているのがわかります。
まさに、この呼吸こそが「です」と「ます」という2層表現に見られる日本語の基本的構造を、あぶりだしているのではないでしょうか。
ただ、2層構造で構成されていない日本語のテキストも当然存在します。
たとえば、新聞の事件記事や小説物語というテキストでは、会話描写には含まれてはいるのですが、形容詞文や名詞文という述語文を本来は必要とはしないのかもしれません。
「本当に胸が痛む事件でした」「こういった事件が起きると本当に私は悲しいです」などという記者の主観文が入った報道記事なんていうものはおそらく皆無でしょう。
ニュースには話し手や書き手の主観みたいなものを挟み込む余地などなく、あくまでも淡々と具体的描写を用いて聞き手や読み手に伝えることのみが、ただ必要とされているんです。
逆に2層構造で構成されているテキストというのは、書き手の主張や判断、思いといったものが文章に反映されている、論文やエッセイのたぐいです。
皆さんが書かれている世の多くのブログもこれに当てはまるのではないでしょうか。
好きなエッセイや魅力的なブログを読むと気づくことがあります。
「です」で括られたセンテンスが多い記事を書かれている書き手さんは、独自の世界観を面白おかしく私たちに教えてくれますし、「ます」が多いブロガーさんは、どこか物語タッチで自然に読ませてくれているのだと感じることができるんです。
ただ、日本語のテキスト内を明確に「判断文」と「現象文」に区分けすることは難しいと言われています。
日本語には「こと」「もの」「とき」「の」「ん」といった形式名詞や準体助詞と呼ばれる表現の存在があり、これらの文末で括られた文は、ちょうど動詞述語文と名詞述語文の間に位置するような構文になっているんです。
「出来る限り続けていくということ」 形式名詞
「裕子が圭介と出会ったとき」 形式名詞
「家賃が入ってこないんだそうだ」 準体助詞
「なんと彼女は、その岸壁をいっきに駆け上がってしまったのだ」 準体助詞
例文の文末にみられる形式名詞と準体助詞は、なんの意味合いも持ちません。ただ単に、動詞述語文を形式的に名詞化し、名詞述語文へと変換させているだけなんです。
「いっきに駆け上がってしまった」という内容を、おそらく、書き手はいっそう強調したいという深層心理があったために、「いっきに駆け上がってしまったのだ」と書いてしまっているにちがいありません。