木々に囲まれた山域に清滝川が流れる、京都市の西北部にある高雄山(たかおさん)。
その渓谷から、乱れ積みの長い階段を登り切ったところに建つのが古刹・神護寺です。
平安京が出現する少し前の天応元(781)年に、高雄山寺として創立された古い歴史を持ちます。

大同4(809)年から14年の間、空海が住居もかねて高雄山寺を真言宗の本拠としたのですが、その後、天長元(824)年には河内の神願寺が合併されることで神護寺として改められ、本尊・薬師如来像が金堂に祀られることになります。
三幅の肖像画
本尊を含め、国宝の宝庫といわれる神護寺の作品群のなかでも最も著名なのが、鎌倉時代初期に描かれたという三幅の肖像画です。
それは、源頼朝、平重盛、藤原光能の3人をモデルとして、藤原隆信が見事な写実で描いた肖像画なんですね。
では、歴史的遺産となるこの肖像画が、京都の山奥に佇む神護寺になぜ残されたのでしょうか。
しかも、源平の代表人物ともいえる、頼朝と重盛という同時代を生きながらも全く対照的な人生を歩んだ二人が、なぜに同時に描かれ共に保存されているのでしょう。
怪僧 文覚
そこには、この肖像画のモデルとなった人物たちと深い関わりを持ったある怪僧の存在がありました。
その僧の名は文覚(もんがく)、俗名を遠藤盛遠といい、もともとは後白河法皇の姉である上西門院に仕えた北面の武士でした。
彼は出家した後、全国の霊地を訪ねて修業を重ね、やがて弘法大師空海のルーツに出会うことで、その思想に尊敬の念を強めていくことになるのです。
その文覚がはじめて神護寺にやってきたのは仁安3(1168)年のことです。
尊敬する空海が布教のための本拠地として繁栄させた真言発祥の地ともいえる神護寺は、この頃いたく衰え、ほとんどは廃墟と化していました。
寺の復興を固く決意した文覚は寄付を駆けずり集めて、薬師堂、納涼殿、不動堂と再建させていくのですが、それ以上の復興は困難を極めます。
やはり、資金調達に苦しむことになるんですね。
彼は上西門院のつながりを頼りに後白河法皇のもとに押しかけ寄進を迫るのですが、その強引な脅迫のようなやり方が法皇の怒りを買い状況は悪化しました。
大声で勧進帳を読み上げる文覚に対して法皇は、「この無礼者!」と家来たちに取り押さえを命じたのです。
そして、流刑になった先が伊豆国であったので、ここで源頼朝と出会うことになり、この頼朝との出会いが文覚の人生を大きく変えていくことになります。
権力への嫌悪
しばらくして、頼朝の挙兵が成功し、平氏に変わって源氏の世となると、後白河法皇は頼朝に寵愛されていた文覚に対して、手のひらを返すように好意を示し、多くの荘園を与えます。
さらに頼朝からの寄進もあって、神護寺の荘園は八か所にも及び、ついにここに再興は軌道に乗ることになるのでした。
そう、文覚はまさに神護寺の中興の祖であり、特異な気性と気迫で復興に命をかけた傑僧であったのです。
ですが、権力というものに対して異常な嫌悪感を抱く文覚は、そのままに権力者に従順にしたがっていくということが出来ませんでした。
平家の血を受けた子供たちを一人残さず探し出して始末するという鎌倉幕府の政策にどうしても納得がいかなかったのです。
そして彼は、平重盛の孫である平高清を源氏の追手からかくまってしまうという行動に出ました。

頼朝に平家討伐の決意をさせた文覚が、平家の直系である高清を助けるというのは確かに大きく矛盾しています。
仏教の慈悲の精神を彼が当然持ち合わせているということもありますが、人とはやはり、そんな竹を割るように簡単に答えを出せるものではないのでしょう。
どうやら、神護寺に頼朝と重盛の肖像画がともに所蔵されているという事実の核心はこのあたりにありそうです。
法皇と傑僧
その後、後白河法皇が亡くなり頼朝も没すると、守貞親王を即位させようと目論んでいた文覚は、後鳥羽上皇に睨まれて佐渡に流され、一旦許され神護寺に戻るも、再び対馬に流されて、途中の九州で命尽きることになります。
いつ見ても波乱万丈の文覚。彼のような存在は権力者たちにとって非常に危険な存在だったのでしょう。
でも、そんな文覚も上覚という良い弟子に恵まれ、文覚の系統は末永く神護寺の安泰を守り続けていくのです。
藤原隆信が描いた肖像画はもともと五幅あり、神護寺の境内にあった仙洞院に掛けられていました。
仙洞院とは、後白河法皇の没後、法皇を祀る御影堂として建立されたものであり、法皇の肖像画を中心にして、法王の最も近臣であった藤原光能像、平業房像、そして頼朝像、重盛像と四幅が法王を囲むように掲げられていたのです。
そして現在国宝として残されているのが、光能、頼朝、重盛の三人の像ではあるのですが、当初の五幅はともに、後白河法皇の菩提を弔うために文覚が藤原隆信に制作させたのではないかと推測されているんですね。
神護寺で肖像画が書院に展示されるとき、頼朝と重盛の像が対となって展示されると、やはり際立ってさまになり、多くの人によって、どよめきが起こるそうです。
天敵同士ともいえる二人の武士の肖像画が左右に並ぶ不思議な光景ではあるのですが、やはり、それは見る全ての人たちを魅了するんですね。
武将たちの希望を一身に担う頼朝、その頼朝像は生気にあふれて凛と気高く、その表情は自信に満ち満ちています。
一方で、天下の知将・重盛は、頼朝にくらべ少し弱々しさを感じさせますが、その柔らかな表情は深い慈悲を感じさせるのです。
死後の世界というのはおそらく恩讐を越えたものなのだろうという考え方、神護寺を取り巻く人たちはそんな信仰を持たれていたのでしょう。
源平の嫡男である二人を藤原隆信に描かせた文覚。12世紀後半の争乱の時代の人々に向けた、彼なりの平和祈願のメッセージだったのかもしれません。