法成寺を建てた藤原道長  欠けることのない満月 

自分にバンザイ わたしでよかった

平安時代最高の権力者といわれる藤原道長。自宅に招いた大勢の公卿の前で「この世をばわが世とぞ思ふ」という和歌を詠み、その場を凍りつかせました。

その慢心に聞こえる自画自賛は、酒の席での戯言でしょ、と流されることもなく、1000年たった今でも語りつがれているのです。

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寛仁4(1020)年、九体阿弥陀を安置する法成寺(ほうじょうじ)は、道長によって洛中に建立されます。

天喜6(1058)年に堂々伽藍が悉く炎上するまで、現在の京都御所と賀茂川の間に位置し、巨大な規模を誇っていました。

その大きさは方二町、240メートル×240メートルで一万七千坪。平安京官寺の東寺・西寺と同じ規模です。

造営には受領はもちろん公卿や僧侶も協力し、諸国から工人や仏師なども駆けつけ、5000人近い人夫が召集されました。

寝殿造にみられる築山・池泉などが構えられ、仙境の風景のような四季の庭がそこに出現すると、「極楽浄土がこの世にあらわれたらしいで」と噂になり、じゃあ、ひと目みたろと、黒山の人だかりができるほどでした。

「この世で最も幸せな人のお寺はさすがやのう~」と庶民から妬まれ、贅沢三昧に生きやがってと、憎悪さえも抱かれていたのです。

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法成寺を建てる本当の理由

法成寺の薬師堂の礎石を集めるために、道長が公卿以下すべての官に手配するように命じると、宮中の諸司、神泉苑の門や乾臨閣、あるいは羅城門・左右京職などの石が次々と運び込まれました。

それだけでは満たされない道長は、瓦料に皇居・豊楽殿に輝く鴟尾(しび)が欲しいと言い出します。

これは、さすがに「万代の皇居、一人の自由か、悲しい哉、悲しい哉」と、各方面から猛反発にあって実現しませんでしたが、残された時間があまりない道長の、信仰に対する執念があぶり出されたわがままな権勢行使だったのです。

じつはこの頃、まわりに見えないところで、病に苦しみ抜く日々を道長は過ごしていました。

解放されるためには信仰にすがるしかなかった。ここに法成寺建立の本当の理由があったのです。

おそらく重度の糖尿病と狭心症を同時に抱えていたと思われ、余命がそんなにないであろうことを予期すると、生涯を終える場所、西方浄土にたどり着ける場所を此岸に用意するんですね。

自身を欠けることのない満月にたとえた道長も、晩年には、その痛みをほどくために、病魔と闘い続けることになるのです。

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人にやさしく

自己中心的で策略家のイメージが先行する道長ですが、そういう側面を持つだけではなく、一方では気遣いの人でもありました。

なによりも、他人の痛みを理解しようとする利他性をそなえた温厚な性格だったのです。

権力闘争で倒した相手に対しても、徹底的に叩きのめすまでは追い詰めませんでした。

ちょっとやりすぎたんじゃないかな、大丈夫かな、と逆に引きずって、そんな日は夜になかなか寝付けなかったといいます。

たとえば小一条院、敦明(あつあきら)親王のことですが、彼が三条天皇の皇太子になったとき、道長は自分の孫である敦良(あつよし)親王を天皇にしたいがために、敦明親王を認めない態度をとってしまうんですね。

これを、後からずっと気にかける道長は、敦明親王に小一条院の名をたてまつって、娘の寛子と一緒になってもらい、手厚い庇護を加えながら二人を見守り続けたのです。

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一家三后という偉業を成し遂げた道長家の当主も、ついに彼岸へ旅立とうとしていました。

法成寺の一室で、息も絶え絶えに横たわる道長は、阿弥陀如来像の手に結ばれた五色の糸をその手に握りしめています。

如来のみちびきにより極楽に行けるようにと糸で結ばれているのです。

後方には見まもる多くのひとたち。いよいよ最後のときが訪れようとしています。

五色の糸をつかんだ、道長のすこし小さくなったその手は、家族たちの、かさねられた手に強く包まれていました。