こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

六孫王神社  臣籍降下と源氏のルーツ 

なぜに臣籍降下は始まったのか

私たちは「源氏」というと、源頼朝・義経など、「武士の源氏」を強くイメージします。

実は「源」という姓は、皇族、つまり天皇一族が「臣籍降下」(しんせきこうか)する際に与えられた姓であり、それは嵯峨天皇のときに始まりました。

皇族にはもともと姓がないために、(皇族を離れ)臣下の籍に降りるものには、同時に姓を与えたわけです。

嵯峨天皇から始まり、はるか先の後二条天皇に至るまで、その皇子や皇孫が源姓を賜ったんですね。

そのなかでも特に名高いのが、やはり、嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏といったところでしょうか。

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源姓の始まりと言われる「嵯峨源氏」、それは、平安京遷都を行った桓武天皇の皇子である嵯峨天皇のルーツです。

嵯峨天皇は多くの皇子皇女を臣籍降下させて源姓を与えているのですが、ではなぜ、この時代から臣籍降下は始まったのでしょう。

カギとなったのが、激しい政治闘争で最終的に勝利を収めた「藤原氏」という一族の存在です。

この嵯峨天皇の時代よりも、まだ先の時代になりますが、律令にはなかった「関白」という職を最終的に彼ら一族は創り出し、それを藤原家で独占することに成功します。

関白といえば、もはや天皇の代理人でした。そして「関白」は「殿下」という敬称で呼ばれるのですが、「殿下」というのは普通は皇族に対する敬称です。

そうなんです、臣下である藤原氏が用いることのできる敬称では本来ないのです。

にもかかわらず、関白になった人物は殿下と呼ばれていた。

これが何を意味するかというと、関白は臣下ではないのだと認識させていたということです。

皇族の人たちが、これをいかに苦々しく不愉快に思っていたか容易く想像できます。

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そして、そうならないようにと、その藤原氏の専横をなんとか阻止しようと立ちふさがっていたのが嵯峨天皇時代の「源氏」なのです。

最終的に「関白」という職は創り出されてしまい、藤原氏の栄華は果てしなく続くのですが、嵯峨天皇をはじめ歴代の皇族たちは黙って見ていたわけではないのです。

嵯峨天皇が自分の子供たちをなぜわざわざ臣下の身分に落としたのかと言うと、それは、朝廷の要職に自分の子供たちを就けるためです。

朝廷の要職というのは皇族のままではなれません。

右大臣、左大臣という大臣に「臣」の文字が付くことでわかるように、朝廷の要職に就くことが出来るのは家臣たちなのです。

藤原氏たちで朝廷が独占されているという状況を嵯峨天皇は一刻も早く覆さなければならなかった。いつまでも、彼らに大きな顔をさせておくわけにはいかないのです。

この嵯峨天皇の計画はうまく運び、源信や源融が左大臣となっていくなどして藤原氏から要職を奪回していきました。

ですが、左大臣が藤原氏なら右大臣は源氏が就くなど、しばらくは、両氏のパワーバランスはうまく保たれていたものの、最終的には、平安時代の権力闘争は藤原氏の圧倒的勝利に終わり、源氏が中央政界で大臣以上に就任する道は完全に閉ざされていくのです。

六孫王

この流れをふまえて、嵯峨天皇から4代のちの清和天皇をルーツとする「清和源氏」の頃になると、武家の棟梁が輩出されていくことになります。

そう、源頼朝・義経・木曾義仲たちを輩出したルーツですね。

清和天皇の皇子である貞純親王(さだずみ)の子、つまり清和天皇の「孫」にあたる経基王(つねもと)が「清和源氏」の始まりです。

貞純親王が六男だったので、六男を経由した清和天皇の「孫」ということで経基王は六孫王(ろくそんのう)と呼ばれました。

前述したように、中央政界は完全に藤原氏に支配されていたので、まず六孫王に出世の見込みはありません。

だから彼は持ち前の武芸の能力を生かすことの出来る関東へ向かい、そこで活躍し武蔵介(副知事)となり、ついには、源氏という氏族名を朝廷から賜ることになるのです。

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京都では出世の見込みがないので地方に出て「清和源氏」の始祖となることが出来た六孫王ですが、年を重ねるごとに、やはり故郷の京都が恋しくなり、晩年には都に戻り邸宅を建設します。

六孫王が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言したので、息子である源満仲(みつなか)は六孫王が亡くなったあと、この邸宅をその父の墓所として霊廟にしました。

これが、現在も東寺のすぐ北に位置する六孫王神社の起源なのです。

その後、この神社は何度も京都の戦火に焼失しますが、その度に時の権力者たちによって再建されます。

なにしろ、頼朝だけでなく、あの足利一族が清和源氏をルーツとしているのですから、尊氏をはじめとする歴代将軍たちが先祖の祀られている神社を疎かにするわけがないんですね。

そして六孫王神社の繁栄の極めつけが、あの徳川家康が清和源氏ルーツの出であるということを主張したことです。

六孫王神社の境内の北エリアは、昭和39年に東海道新幹線の用地となってしまったために、すっかり狭くなってしまいましたが、その庭園の池には、今もカワセミが舞い降りてくるのです。