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京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

木曽義仲と巴御前  その女傑 まことに美麗なり

木曽谷に逃れて

平家総帥・清盛が倒れた後、京都から平家一族を追い落したのは源頼朝ではなく、信州・木曽の山中で挙兵した木曽義仲でした。

義仲の本姓はもちろん「源」であり、木曽の住人である「源義仲」というのが正式な名前なのです。

義仲と頼朝は互いの父親が兄弟となる、いとこ同士にあたります。

そして義仲の父である源義賢は、頼朝の兄である悪源太義平に殺されてしまっているんですね。つまり、甥っ子に殺害されている。

このとき、頼朝系の勢力が強い関東にいると危険が及ぶということで、まだ幼い義仲は信州に逃され、中原兼遠という人物に育てられることになります。

その中原兼遠の娘があの女武者として有名な巴(ともえ)であり、彼女にとって義仲は兄のように慣れ親しんだ大切な存在でした。

そう、二人は幼少のころから何をするのも常に一緒で、成人になっても、巴は武装した姿で義仲軍の中にその姿を見せたのです。

人生の絶頂期

寿永2(1183)年、木曽から越後に入り、徐々に兵力を拡大していた義仲は、ついに、加賀と越中の国境の俱利伽羅峠(くりからとうげ)において、平家の大軍に夜襲をもって襲いかかりました。

そしてこの戦いに圧倒的勝利を収めた義仲軍は2ヵ月後には近江坂本まで進出します。

近江坂本、そうそこは都まですぐの距離にある、あの比叡山・延暦寺の支配下にある治外法権ともいえるエリアでした。

叡山の僧兵たちで形成された戦闘集団たちは義仲をすぐさま受け入れ、ともに都になだれ込むように押し入るのです。

義仲たちは後白河法皇は無事保護することが出来たのですが、幼い安徳天皇と三種の神器を、京を脱出する平家に奪い取られてしまいました。

じつは、この時点で正式な皇位継承権をもつ安徳帝が平家によって西国に連れ去られたことにより、後の、義仲の人生が大きく変わってしまうんですね。

ともあれ、ついに宿願の都入りとなった義仲。

そばに仕える巴は、「色白う髪長く、容顔まことに美麗なり」と都で評判になるほどの美しさでした。

除目が行われ左馬頭(さまのかみ)任ぜられた義仲は、念願の「朝日将軍」という称号も賜りました。

平家を追い払い、官位を手にした。ついに頼朝に大きく差をつけた。奴に勝ったのだと、人生の絶頂期を噛み締めていたのです。

ですが、ここからの振る舞いが良くなかった。調子に乗って、安徳帝がいなくなった後の皇位継承問題に口を出し、後白河法皇の怒りを買ってしまうのです。

義仲は、懇意にしていた以仁王の系統であり、後白河の孫である北陸宮を天皇にすべきだと主張したのですが、これが後白河は気にいらなかったのです。

それよりも、高倉帝の系統の孫であった、まだ5歳と4歳という幼い兄弟の親王たちのほうが、よっぽど可愛かったんですね。

結局、後白河は下の子だった第四皇子の尊成(たかひら)親王を選び、即位させました。これが後の「後鳥羽」です。

混成された集団

一方で、このころ頼朝はまだ「流人」の身分でありながらも、鎌倉を動かずに着々と地盤を固めるとともに、京の動向にも絶えず気を配っていました。

頼朝のもとに集まっている御家人の関東武士たちというのは揉め事もあったでしょうけれど、基本的には義に厚く、志を高く持つエリート集団です。

でも、入京していた義仲軍の兵たちは、義仲について行けば一旗揚げられる、美味しい思いができるという連中ばっかりの寄せ集め集団でした。

物資が豊かで華やかな賑わいをみせる京に入って、そんな連中がおとなしくしている訳がありません。

それこそ、あちこちで略奪、暴行、放火など、都に暮らす人たちを苦しめるということを数限りなく繰り返し行っていたんですね。

さらに、巴や一部の優秀な幹部たちは、これを必死に抑え込もうとしていましたが、肝腎要の義仲がどうにもまずかったのです。

 

                              【 安徳天皇 】

なんと義仲は、前関白・藤原基房の娘に夢中になってしまうんですね。

その姫というのは、このとき17歳、都でも絶世の美女と評判のその容姿に、義仲は己の使命も忘れてのめり込んでいってしまうのです。

その有様に、ついに業を煮やした後白河法皇は義仲に、再度、西国への平氏追討を命じました。

ところが、西国へ向かった義仲軍は備中・水島の合戦で、平家を相手に海戦において、不慣れな弱点を突かれてほぼ全滅してしまうんですね。

平家というのは本拠地の西国、特に、海戦では抜群の戦闘力を発揮します。海戦においては彼らは決して弱くはないのです。

義仲の最期

わずかな人数で京に戻った義仲軍はもう後がなくなり、後白河法皇と新帝を幽閉し、クーデターを起こしました。

ここでついに鎌倉の頼朝が動き出します。そう、頼朝の命を受けたあの義経(よしつね)率いる軍勢が木曽義仲を討つため入京してくるのです。

敵を滅ぼすために生まれてきた男、歴史的な戦術の天才、その源義経にとってこのときの義仲軍など赤子の手をひねるようなものです。

義仲はなすすべもなく敗走し、わずか7騎で逃げまどう途中、深田に馬がはまったところを矢で打ち抜かれ絶命しました。

その残る7騎のなかに巴もいたのですが、義仲は矢で討たれる前に、巴だけは別方向に逃げ走るように指示していたんですね。

たった一騎で駆け走る巴を、それでも追ってきたのが、武蔵の国の豪傑・御田八郎です。

御田八郎はかなり名の通った恐るべき手練れの武人でした。猛烈な勢いで巴に襲い掛かる八郎。

ですが巴はひるむことなく八郎の馬にピッタリ馬をあわせると、瞬間的な動きであっという間に八郎を引きずり落とし、身動きもさせぬまま首を斯き切ってしまったのです。

そしてそのまま、まるで何もなかったように巴は長い髪を風になびかせ、大きくおたけびを上げながらどこまでも駆け抜けていくのでした。