こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

レベルの異なるふたつのモダリティ表現  見分けることで文章構成が面白いように見えてくる

レポートや論文といった論説文タイプの文章は、具体的な事実の部分と書き手の意見・主張という部分に大きく分けることができます。

多くの場合、根拠となる具体的事実を材料として、書き手がそこで伝えたい主張を解説していくという構成になっています。

個別に並べられた客観的事実を、書き手の主観が含まれた抽象的見解でまとめあげる。そんな、共通性を抽象する帰納的な表現がされているはずなんです。

その書き手の主張や判断といった主観を表す表現を言語学では「モダリティ」と呼ぶのですが、たとえば、

もうすぐ約束の場所に着く。彼女は待っていてくれるだろうか

という発話で見た場合、「彼女は待っていてくれる」の部分が命題と呼ばれる事柄の中身で、その命題に対して「だろうか」というモダリティ表現の部分が付加されている構造になっているんです。

彼女は待っていてくれる  断定(無標)

彼女は待っていてくれるだろう  推量

彼女は待っていてくれるかもしれない  可能性

彼女は待っていてくれるはずだ  確信

といったように、その時の、様々な話し手の捉え方や思いが言葉の最後に露呈されることになります。

また、文字にした場合でも、このモダリティ表現が文末に加わることで「文」は初めて「文」となることができるのです。

複雑な修飾節が使われていようがなかろうが、文が成立するかどうかには全く関係ありません。

極論を言えば、「雪だ!」の一言でも「断定」されたひとつの立派な「文」であり、「お~い、吉川君」だけでも「呼びかけ」のモダリティで表現された正式な「文」となっているんです。

そして、モダリティの本質をとらえようとするとき、まず最初に押さえておきたいのが、モダリティ表現にはふたつのタイプがあるということです。

ただ、このふたつのタイプは明確に区分できるものでもなく、グラデーション的に混ざり合う部分が含まれています。

読み手の捉え方次第で、どちらが選択されるかが変わってくることもあるということなんです。

ただ、このふたつのモダリティ表現を区分しながら文章を読む習慣をもつと、文章構成が面白いように見えてくるんですね。

モダリティの分類

①真偽的判断  

A 認識のモダリティ形式:「だろう」「かもしれない」「にちがいない」「はずだ」「と思う」「ようだ」「らしい」

B 疑問のモダリティ形式:「か」「のか」「ないか」「のだろうか」「のではないだろうか」

②態度的判断  

A 評価のモダリティ形式:「ほうがいい」「てもいい」「なければならない」「べきだ」「必要がある」

B 意思のモダリティ形式:「う・よう」「たい」「たがる」「つもりだ」

各ABの区分けには特別な意味はありません。ただ2種類あるというだけです。

注視すべきは①と②の対比構造になります。語尾の表現にこだわるのもひとつの注目方法ですが、肝心なのは、その①②における、それぞれの包括レベルを見極めるというところにあります。

①真偽的判断の場合は、あくまで、題材となっている「事柄・事実」に対してだけの話し手の判断が必要とされます。

一方で、②態度的判断というのはもっと大きな包括的なもので、判断という領域を越えて、話し手の心理的なところまで踏み込んだ表現がされているんです。

言い換えれば、たとえば、まだ起こってない事態に対する話し手の主観的判断には①②というふたつのタイプがあるとします。

まず、その事態がどのくらいの見込みで実現するかどうかだけを問題にするのが①真偽的判断。

そして、その事態を話し手や聞き手が実現させるかどうかまで踏み込んで問題にするのが②態度的判断、といったように、①②の包括レベルは区分されるということなんです。

では分かりやすく見るために、思考動詞「思う」を使った例文で見てみましょう。

真偽的判断

ⓐ80年に国民投票で原発全廃を決めたスウェ―デンでは、その後に再三廃止時期が延期された。ドイツでも最終的に全廃となる2020年までに紆余曲折が予想されるが、現実化した脱原発の流れは世界的に広がっていくと思われる。

「思われる」といった客観的な表現にされていて、より一般的に述べられている感じがしますが、表現主体は書き手であり、原発に対する真偽的判断がされています。

ⓑ「北国の春」「昴」など、中国語に訳されて、ヒットしている日本の曲は多い。中には、元の日本語のイメージとまったく違った「里の秋」のようなものもある。そして、こうした曲の多くは、中国人の間で中国で作曲された曲と思われている。

「思っている」のは誰か。それは、書き手ではありません。思っている主体は中国人なんですね。だからこの真偽的判断は中国人の判断を表していることになります。

まさにここがグラデーション的と言った理由で、日本語の事実と判断の線引き自体がいかに難しいかがわかります。

態度的判断

中海ですでに完成した施設を、他の多角的で前向きな目的にどう活用するか、にも注目したい。公共事業中止後の先例になるからだ。

ⓓ高速増殖炉開発の予算を自然エネルギー開発に回すのも有力な選択肢だろう。策定会議のメンバーは責任の重大さを自覚し、長期計画の年内決定までに再考してほしい。

ⓒは特に問題ありませんが、ⓓの文では、「再考する」主体は「策定会議のメンバー」になります。

つまり、判断の主体と動作の主体が異なるのです。ですが、この文全体の主体は書き手だと断言できるんです。

ⓑの文では表現主体は中国人なのに、ⓓの文では表現主体は、それも含めて書き手となるのです。

これこそが、真偽的レベルと態度的レベルの包括の次元の違いと言えます。

心理的部分まで踏み込んだ表現がされている態度的判断、それは、概念の一番外側に膜を張るように文章全体を包み込んでいるんですね。