北大路魯山人  美食俱楽部による至高のメニュー そしてパブロ・ピカソとの出会い

美食倶楽部

陶芸、篆刻、書画とマルチにその才能を発揮させた北大路魯山人(ろさんじん)。

美食家という称号をこの国で初めて獲得したのも、他ならぬ彼だったのではないでしょうか。

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大正10年、魯山人は38歳のときに、経営していた美術店の2階に会員制割烹「美食倶楽部」を開店しています。

それは、下の階の美術店に置かれていた古陶器を使って、魯山人みずからが手料理をふるまうといった贅沢な趣向を凝らしたものでした。

その場で注文を聞いて料理人がこしらえるという外食の形態というのは、そう、大正の終わりから昭和にかけての、ちょうどこの時代にやっと始まったんですね。

なぜなら、この頃から都市ガスが広く普及して迅速に火が使用できるようになったからで、それまでは、いちいち炭を熾さなければならなかったので、とても客の注文に応えることなど出来なかったのです。

魯山人がこの時代の変化に迅速に対応して割烹経営に取り組んだのは、世の中が外食産業というものに、まだそんなには馴染んでいないころです。

注文を受けて出来立ての料理を提供するというスタイルは、まだまだこの国では新しいものでした。

そこに、彼の幼少期からの美食に対するこだわりに並々ならぬものがあったからこそ「美術俱楽部」は発足されたといえるのです。

上賀茂神社社家町

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魯山人は、京都にある上賀茂神社周辺の社家の町に生まれ幼少期を過ごしています。

社家とは代々特定神社の奉祀を世襲してきた家(氏族)のことで、彼はその社家の二男としてこの世に生を受けました。

ですが7歳のときに腸カタルを患い、三人の医者にも見放されることになります。

そんな絶望的状況のなかで彼を救ったのは、なんと台所から漂ってきたタニシを煮る香りでした。

瀕死の状態にありながらも、タニシを食べたいという一心で意識を取り戻すことに成功したというのです。

そして、ある日のこと、近所の魚屋の店先で、従業員が鮎の頭と骨だけを大量に処理し捨てているところに魯山人少年は遭遇します。

不思議に思いたずねると、三井家の注文で鮎の洗いを作り、これはその残りのアラだというじゃありませんか。

少年は、世の中にはこんなにも贅沢なことをする人がいるもんだなと感心すると同時に驚きを隠せませんでした。

鮎には塩焼き以外の食べ方がある、鮎を洗いに作る方法でいつか自分も食してみせると、貧しかったいつかの少年は心に誓ったのです。

貪婪な食欲

美味いところとなると、徹底的に食わなければ気のすまない性分、その貪婪な食欲こそが魯山人という芸術家の原動力であったのは間違いありません。

大人になった彼が、美食俱楽部で鮎の洗いを客に提供するときに実践したというあるこだわりのやり方がありました。

それは鮎の鮮度がもっともうまく保たれた状態で客に差し出すということ。

そのために、国鉄という鉄道列車を使って、川で獲れたての鮎を生きたまま店の調理場まで移送させたのです。

今のように冷蔵の宅配便がない時代です。桶に入れた鮎を国鉄の特急で運ばすことで、最も鮮度の良い鮎を手に入れることが出来ました。

そう、一匹の鮎を手に入れるためにこれほどの労力を費やすほど、真に美味しいものに魯山人はこだわり、追い求めたんですね。

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美食俱楽部は関東大震災に遭い店は焼失しましたが、数年後、彼は赤坂に「星岡茶寮」を開店させています。

至高の料理メニューはもちろん、器の目利き、接客対応、スタッフの服装まで、独自の感性で徹底的にこだわりを見せ演出しました。

そこには魯山人に惚れ込み傾倒した政界人、財界人、文化人が途絶えることなく訪れ、今をときめく社交場となったのです。

星岡料理の特色として、日本料理の伝統を踏まえながらも、思い切って何かインパクトのあるものを一種だけ出すのが効果的であると魯山人は考えていました。

そうすると、献立に中心が出来て全体をよく統制し調和させると確信していたのです。

山海佳肴盛り(さんかいかこう)や真名鰹の姿焼きといったメニューがそれにあたるのですが、蒟蒻の粉鰹煮、栗、銀杏、むかごの田舎煮のような惣菜風料理をコースのなかにしのばせ、美食珍味に飽きた会員たちの舌を喜ばす工夫も決して怠らなかったのです。

また、地方の有名料理店の長男、次男を研究生として預かることで、各地方の有名郷土料理を積極的に取り入れることにも力を注ぎました。

さらに、料理のよしあしは材料のよしあしに決定的に左右される、その選択に全てがゆだねられるという信念のもとに、費用を少しも惜しむことなく、今度は飛行機による空輸によって至高の食材を取り寄せていたのです。

特に生まれ育った京都の食材へのこだわりは尋常ではなく、タケノコ、松茸という京都産を貪欲に入手していたんですね。

この間抜けが!

時は流れ、魯山人の陶芸作品は世界に認められることとなり、昭和27年、68歳のときにパリの陶芸展に出品を果たし、現地で絶賛されることになります。

そして、その噂を聞きつけて、あのピカソが陶芸展の会場に訪れて来ました。

魯山人はかねてからピカソ作品に魅了されていたので、フランスで作品を展示することがあれば是非彼に意見を拝聴したいとスタッフに漏らしていたんですね。

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そして、ここに魯山人とピカソは初めて対面することになるのですが、挨拶を終えると、ピカソはおもむろに魯山人の作品が納められた桐箱を手に取りました。

そして、桐箱の表面に手を触れたピカソはその桐の木肌のなめらかさに魅了され、歓喜に上気し箱を褒めたたえ始めたのです。

その様子を見た魯山人は「箱じゃない、箱じゃないんだよ、この間抜けが。私の作品は箱の中だ!」と、大声でピカソを怒鳴りつけたので、会場は騒然となり係員が飛んできたのでした。