なんだか読みづらいけれど、我慢して読み続けるとひとつの味わいがでてくる。そういうタイプの文章は、ある意味「悪文」と呼ばれます。
もちろん、そこには独特の魅力があるわけで、それはそれで、一個の文体となっています。
そんな読みごたえのある「悪文」のなかでも代表的なのが、欧文を翻訳したかのような「翻訳調」の文体です。
「翻訳調」というのは、あたかも英語などを翻訳したかのように感じられる文体のことで、実際の直訳体とは異なり、背後に英語がなくても、翻訳っぽく見えればいいんですね。
翻訳調の場合、注視されるのは文の組み立てや語彙の選択など、その背後にある作者の発想に読者の意思は向けられるからです。

日本の翻訳調で評価の高い作家といえば、大江健三郎や金井美恵子、野坂昭如、村上春樹などがあげられます。
なかでも村上春樹の文体はあきらかに翻訳調ですが、けっして読みにくいわけではなく、東西を問わず訳され、受容されているのです。
欧米系、アジア系をとわず、日本にいる留学生は、日本語で書かれた彼の作品を一様に読みやすいというらしいんですね。
緑の父親は二人部屋の手前のベッドに寝ていた。彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。
横向きにぐったりと寝そべり、点滴のささった左腕をだらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。
やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもっと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。
頭には白い包帯が巻きつけられ、青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。
彼は半分だけ開けた目で空間の一点だけをぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。
そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。
(村上春樹『ノルウェイの森』より)
全体の印象として、客観的でドライな描写になっていて、まるで観察しているような感じが強くします。
無機的でありながらも歯切れのよさが感じられ、体が動かせない緑の父親の目だけが動いている様子が見事に切り取られているのもわかります。
一人称の物語の場合、主人公の個人的な印象の強い描写になってしまうのですが、翻訳調にすることでそうならずに、突き放しながらも冷静で客観的に表現されているんですね。
そして、「思わせた」「与えていた」という他動性の表現が客観的な雰囲気を醸し出しています。
じつはこの2か所の文は主人公の表現位置を示しています。
ふたつを自動性の表現に変えると、「小動物のようだった」「小さくなりそうだという感じがした」という表現に変わるのですが、ともに、主人公の感想を述べたものです。
その他の文は、すべて緑の父親という外観世界を描写しただけのものになっています。
主人公の主観の部分をまるで他人事のような表現にする。この他動性の表現は翻訳調の特徴のひとつで、本来、日本語の自然な文章というのは自動性が強いものなんです。
「点滴の針のささった左腕」「半分だけ開けた目」といった連体修飾も翻訳調を強く押し出す表現法で、自然な日本語なら、「左腕に点滴の針をさし」「目を半分だけ開けて」と連用修飾を使うはずです。
翻訳調と見られる細かな表現は他にも見られますが、「連用修飾をほとんど使わずに、連体修飾を多用する」、これこそが翻訳調のもっとも大きな特徴ではないでしょうか。
たとえば、
Ⓐ肝心かなめの原因に目を背けてきたので、会社が抱える問題は解決しないだろう。
という連用修飾節を使った複文があったとします。これを翻訳調にするとすると、
Ⓑその会社が抱える問題は解決しないだろう。
肝心かなめの原因に目を背けてきたからだ。
と、まずふたつに分け、
Ⓒ会社の存続に影響するほどのその切実な(問題)は解決しないだろう。
まさに核といってもいい、肝心かなめの(原因)に目を背けてきたからだ。
といったように、連体修飾で説明を加えていくと、まさに、「悪文」の要素を携えた翻訳調のセンテンスになっていくのです。
こういった翻訳調の語りは皆さんもよく耳にされているのではないでしょうか。
そう、洋画の吹替版の語りのところです。解説者や主人公の心の声を聴かせることで、ストーリーの展開を進めていくあの語りです。
連用修飾はほとんど使われることなく、少し長めの連体修飾を入れながら、センテンスをテンポよく単発的に区切り重ねていく。
映画を見ていて、そんな手法を使って構成されている吹替版が多い気がするんです。