激動の時代と豊臣秀頼の寺社復興 そんなあなたのおかげです

激動の50年

永禄11(1568)年に織田信長が入京してから、元和元(1615)年の豊臣家滅亡までの僅か50年に満たない日月。

この短いながらも激動の時代は、近世封建制度の成立と、京都の新たな都市計画の始まりでした。

中世の終わりから仏教は、貴族から庶民のものへと脱皮していき、旧仏教系の寺院も新仏教系の寺も、新しい時代への対応をさがしながら、堂宇の復興に努めることになります。

豊臣政権の成立とともに、信長時代から一転した親和的な復興援助を、京都の仏教界は与えられていました。

ただ、それには寺領検地という代償も伴なっていたのです。

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寺領検地は、信長の時代から洛中の寺院に対して出されていた令でしたが、秀吉政権によって本格化されました。

洛中のすべての土地の所有権は、原則的には、もともと皇室・公卿などにあります。

これが、何世紀にもわたる長い歳月のなか、この所有主から直接または間接的に、寄進・買い入れ・譲渡・質流れなどのさまざま事情により寺領となっていったのです。

その寺社領となっている土地を、もとの所有者である公家衆に還付することを命じたのが寺領検地です。

寺院による土地支配の終わり

この寺院の領有権を改めて問い直すことの目的は、皇室に配慮した、公家の救済にあったのですが、守護不入といわれた寺院の特権を取り上げることも、もうひとつの大きな理由だったのです。

この下命は、中世までの、京都を支配する王法と仏法というふたつの支配体制を完全に否定し、統一権力による完全な支配の下に仏法を位置づけようとする、近世覇者たちの堅固な姿勢なのでした。

この代償の上に、これまでよりもはるかに大規模になった伽藍の復興と寺院経済の安定を、近代京都の仏教界は獲得しました。

そして、近世の檀家制度や寺請制度が開始される日も、もうそこまで来ていたのです。

秀頼が復興させた都の寺社

豊臣家を秀頼が相続した慶長3(1598)年から、彼が大坂城で帰らぬ人となった元和元(1615)年までの時期、京都で驚くべき多くの寺社が、秀頼の発願によって造営されています。

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慶長3年、秀吉が広大な寺内に三千本の桜を移植させて、盛大な花見を開催した醍醐寺の観桜の宴。

これにともない醍醐寺・三宝院の復興が進められましたが、まもなく秀吉が不帰の人となったので、幼い秀頼に引き継がれました。

慶長4年、三宝院には唐門が竣工され、玄関・葵の間・秋草の間・庫裏・表書院・寝殿・護摩堂と連なる大社殿が完成します。

醍醐寺・寺内でも、西大門・如意輪堂・五大堂・上醍醐御影堂と、つぎつぎに竣工され、ほぼ10年にわたり復興援助された醍醐寺の景観は、すぎし王朝の雄姿を見事によみがえらせていったのです。

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その他、秀頼の援助によって進められた寺社の復興を、以下に紹介します。

慶長4年8月 東寺 金堂・講堂を復興 南大門を造営する(門は明治元年に焼失)。

慶長7年11月 嵯峨清凉寺  釈迦堂の落成。

慶長10年10月 相国寺  現存する法堂及び鐘楼を竣工。

慶長11年 京極今出川にあった真如堂の本堂の竣工。

慶長12年12月 北野天満宮  本殿・拝殿・回廊・東門・中門を含む現存の大社殿の竣工。

慶長13年6月 鞍馬寺 毘沙門堂、同18年9月 金戒光明寺 御影堂を落成させるなど、宗派を問わず続けられました。

秀頼を愛したすべての京都市民

これらは、亡き秀吉の遺志を引き継いだものも多くありましたが、豊臣家の遺産を急速に消耗させようとする、東国の古タヌキの計らいもそこにはありました。

でも、それでもいいいのです。大切なのは、当時の京都のすべての人たちが秀頼をどう思っていたか。

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故太閤は神となり東山阿弥陀ヶ峰の山上に鎮座しました。そこの社殿である豊国廟は、秀頼にとって最も大切な造営でした。

毎年、遷宮の日である4月18日と秀吉の忌日の8月18日には、例祭がとり行われ、勅使奉幣、秀頼名代や諸大名の参拝があり、能楽など様々な芸能が奉納されました。

豊国社への崇敬はしだいに京都の人々の心に、静かに深く定着していったのです。

そして、慶長9年8月の秀吉の七回忌にあたって、豊国神社を中心にして豊国大明神臨時祭が盛大に行われました。

公家、武家、町衆、まさに全ての京都市民たちが、興奮のるつぼと化し、豊臣家と秀頼に心酔して踊り続けていたのです。