京都に出現した近世的覇者
王城を抱く京都が堅持した古くからくる伝統や、そこに住む人々の生活から育った風習。
新しい街の支配者である織田信長は、これらを一切認めませんでした。
永禄11(1568)年、中世末のカオスの世界から生まれた近世的覇者は、京都に出現したのです。
当時の日本人としては珍しい存在なのですが、信長は来世の存在を信じていませんでした。
来世の概念を否定し罪の意識も持たない信長は、仏教からもキリスト教からも無縁な存在であり、無縁な人生を選んでいたのです。
それは同時に、偶像すなわち仏像や神像を大切にする社寺の存在価値が、否定し去られたことになります。
朝廷や公家、古くからの大社・名刹、都に根強く教線を伸ばした新仏教、町衆など、独特の宗教的雰囲気になじんできた当時の京都の人々にとって、おそらく、信長は歓迎すべき相手ではなかったのでしょう。
そして、信長のこの宗教観によって、やがて旧仏教勢力を代表する天台・山門と、一大仏法国を形成していた本願寺の両派が、彼の前に敢然と立ちはだかることになります。
次から次へと現れる敵軍たち
元亀元(1570)年、つまり信長入京の2年後のことですが、朝倉義景の宣戦布告を受けた信長は、みずから兵を率いて浅井・朝倉の軍勢と姉川で戦い、両軍を敗走させました。
世にいう姉川の合戦ですが、この勝利の余韻もつかの間、戦火は摂津に飛びます。
阿波に退いていた三好党が摂津に入り、野田・福島に築城して京都の様子を伺い、今にも攻めんとばかりの形成を示していたのです。
信長は岐阜から上洛し、三好党を叩き潰すために野田・福島の両城に迫りました。
このとき、将軍・義昭も都を出陣して摂津中島に布陣しました。ふたつの城の落城も、たやすく終わらせようとしていたその直前、信長軍にとって、衝撃的な事件が起こります。
三好党と通じていた石山本願寺が諸国門徒に檄をとばして、信長に対して兵を挙げたのです。
そう、ここから仏法王国・本願寺の諸国門徒たちと、信長の長い戦いがはじまることになるんですね。
さらに、ふたたび浅井・朝倉軍勢が、この機に乗じるように南近江に進出してきます。
両軍は、織田信治・森可成を討ち取り、坂本に布陣して醍醐・山科地区を火の海へとせしめました。
まさに信長は腹背に敵を受けることになり、同時に京都をめぐる政治的あるいは軍事的な情勢は、きわめて不安定な状況下にあったのです。

そろそろ腹わた煮えくりかえる
信長は、急遽、野田・福島城の囲みを解いて、翌日には浅井・朝倉両軍を攻めるために坂本に向かいます。
信長を嘲笑うかのように、両軍は比叡山・山上に布陣して待ち構えました。
そう、比叡山延暦寺、天台・山門は、浅井・朝倉軍と反信長同盟でしっかりと手を結んでいたんですね。
浅井・朝倉軍は布陣しているこの叡山から、すぐ近くの京の街へ進出し、修学院・一乗寺・松ヶ崎の集落を放火し略奪を行います。
「ヒャッホ~」と馬で駆けまわり、お年寄りたちを苦しめ、女性や子供たちばかりを追いかけまわすように暴れまくりました。
そう、実は叡山の僧たちもこれに便乗していたのです。なぜなら、この時代のころはまだ、宗教団体も武装勢力を兼ねそなえていたからなのです。
この他にも、この時の京中の騒動は大変なもので、我慢できなくなったのでしょうか、土一揆が西岡の地で勃発します。
一揆は洛中の近郊農村に広がり、京中に乱入して略奪が始まりました。
幕府は徳政令を発してこれに対処しますが、一揆の猛威は加速しはじめて、翌月の終わりまで悪夢のように続きます。
そして、ここで信長の苦しみに追い打ちをかけるように、悲劇的な事件が起こりました。
京から遠く離れた尾張小木江城で、本願寺・顕如の命で蜂起した一向一揆に、信長の弟・信興が殺されたのです。
「そろそろ腹わた煮えくりかえる、引っこぬこうかどうしようか」と、信長は血の涙を泣きました。
ひとすじの光
この元亀と改元されたこの年は、信長にとって悪夢のような年でした。
みずから越前に入り、河内・摂津へ向かい近江で戦っても何も得られなかったのです。
ですが、絶望的状況が続く中、ひとすじの光となる報告が信長にもたらされます。
そう、猛威をふるった京都近辺の土一揆を、木下秀吉がすべて叩き潰してきたのです。
そして、まるでこのタイミングを待っていたかのように、勅を奉じた関白・二条晴良の仲介により、浅井・朝倉との一時停戦が成立しました。
これによって、とりあえず信長はこの危機を脱することが出来たのです。
軍事的要塞 叡山
信長が一番気がかりだったのは、浅井・朝倉の布陣を比叡山の山上に許した天台・山門の動向でした。
何か月も前から、近江坂本に布陣する信長の主力群と、京都に陣取る義昭旗本勢や木下秀吉軍に、叡山にいる浅井・朝倉軍は挟撃されていました。
浅井・朝倉はそのままの状態が続いたならば、迫りくる寒気と糧米の不足によって身動きできないはずだったのです。
にもかかわらず、ゆうゆうと山下の織田軍と対峙しえたのは、明らかに山門山徒の援助があったからなのでしょう。
ただ、信長がこの後、叡山を襲撃することになるのは、この時の恨みとか、信長個人の無神論宗教観でもなく、よく言われる当時の山門僧侶の墜落や風儀の乱れを糺すためなどという、とんでもないこじつけの理由でもないのです。
比叡山というひとつの山、それは京都と北陸路や東国路をむすぶ重要な地理的条件を持つ場所です。
その制圧は、この時の信長にとって最も重要な軍事的課題、つまり湖岸平野部の確保という純粋な戦略的意図がそこにありました。
この軍事的要塞の価値を何がなんでも完全に剥奪しなければならないと、信長は強く認識していたのです。
自身に対する反勢力と叡山が組めばどんな目にあうか、そう、この山門の軍事的機能の実力を、この浅井・朝倉の戦いによって思い知ったのです。
「うつけものと呼ばれたゴロツキも偉くなったものよ、この苦悩を振り払い、もう一度這い上がってやれ」と、信長は自分自身に言い聞かせました。
もはやこれまで
元亀2年正月、なかなか状況が動くことのなかった信長軍の風向きが変わりはじめました。
近江横山城を守る木下秀吉は、越前から大坂につながる商人や旅行者が通る、近江の姉川から朝妻に至る海陸の交通を完全に遮断することにしました。
そう、大きく経済的利潤を失うことになっても、朝倉・石山本願寺連合と、浅井の連絡遮断を狙ったのです。
ついで2月、これに呼応するように、織田軍・丹羽長秀が浅井軍が守る佐和山城を降伏させ占領しました。
これで、岐阜から湖岸平野への通路が確保されたのですが、織田軍にとって後につながる大きな前進だったのです。
5月、押し合いの続いていた近江で、江北の一向一揆と手を結んだ浅井長政が姉川に突如出現します。
さらに織田軍・堀秀村が守る鎌刃城に怒涛の如く押し寄せてきたのです。
堀秀村は徹底的に攻められボロボロの状態にされ、「もはやこれまで」と、風前の灯火の状況にありました。
ですが、その時ひとりの武将が大軍を引き連れ、疾風のごとく駆け上がってくるのが秀村の目に映ります。
横山城将・木下秀吉その人でした。秀吉は堀秀村を助けるために奮戦し、次々と浅井軍を蹴散らしました。
浅井勢はたまらず敗走しはじめ、戦況は大きく織田軍に有利に動くのです。
この機を信長は逃しませんでした。大軍を率いて一気に近江に出陣し、浅井長政の小谷城を攻めます。
その勢いで瀬田に入り、三井寺を通り、ついに坂本に向かいました。
不意をつかれた山門がやっと気づいたときはすでに遅し、織田軍、総勢3万の軍勢は比叡山・東麓に殺到してきていたのです。