豊臣恩顧たちの選択
元和元(1615)年5月7日、難攻不落と称された豊臣・大坂城は、徳川軍からの猛攻撃を受けて、ついに落城しました。
翌8日、人質として豊臣秀頼に嫁いでいた家康の孫娘・千姫からの助命嘆願も受け入れられず、ついに、秀頼、淀殿ともに自害し帰らぬ人となったのです。
千姫の救出を見届けた家康が二条城に凱旋したので、あいついで、諸将たちも入京することになります。
二条城内はすぐに、戦勝祝いに訪れた公武関係の要人たちで溢れかえっために、家康は秀忠と協議して対応にあたりました。
そして、豊臣恩顧といわれた諸将たちは、この後、あっさりと徳川家に従順していきます。
この先の家族たちの将来も考えていたのでしょう、もちろん武士としても、それなりに様々な決意があったはずです。
秀吉の本妻であった北政所、つまり高台院が徳川側についたのも、彼らの気休めにも口実にもなったのかも知れません。
ただ、諸将たちの心のなかに、尋常ではない葛藤や苦しみがあったことは間違いないのでしょう。
表面だけは敬う幕府
大坂城が落城するその前の年のこと、大坂冬の陣が始まろうとするそのときに、幕府が朝廷にある要望を示すのですが、受け入れてもらうことはかないませんでした。
家康が朝廷に秀頼追悼の綸旨を奏請したものの、許容されなかったのです。
このことで、家康の朝廷に対する不満は大きく残り、家康が入京して二条城で公家たちの見舞いを受けた時も、徳川と禁中の間には、なにか疎遠の雰囲気が漂うことになります。
そのあとすぐに徳川軍の陣中に朝廷から勅使が派遣され、豊臣との和議をすすめられたのですが、何をおっしゃいますやらと、家康はこの勧告を平然と辞退しています。
綸旨奏請を黙殺されたばかりか、逆に、秀頼を助けようとした朝廷に対して、家康は納得がいかず憤りを感じていたんですね。
元和元年7月、大坂の陣の最終仕上げのような形で「禁中並公家諸法度」が制定されました。
これは法度として出されているので、明らかに政治関与に対する朝廷への敬遠策に違いありませんでした。
この法度は、皇族・公卿たちの席次・服制・任命はもとより、微細な日常行動までにも口を出し制限し、違反者に対する処罰を細かく規定しています。
そう、これによって朝廷や公家衆は、まったく行動の自由を奪われたのです。
この法度の発布の動機は、この頃の公家衆の風紀上の問題が摘発されていて、そういった不祥事の発生を阻止することが、本来の目的でした。
ですが、大坂の陣において示された朝廷の反幕感情を、法度によって威圧、抑制させるという裏の意図がそこにあったのは、間違いありません。
徳川に突っ張りとおした漢たち
元和偃武(げんなえんぶ)。それは、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指します。
世の中、それを成し遂げた徳川に、ほとんどの人たちがやられっぱなしでした。
でも、その徳川新体制に対して、明らかに批判的な態度を見せた突っ張り武将たちも、そこには存在したのです。
歴史的に著名でもあり、京都の文化とも深くつながりを持つその武将たちは、敗者側のひとつの転機の見本を造り上げたのだと、今に伝わります。
たとえば、大坂城落城の直後に、切腹を命じられた古田織部。
千利休の一番弟子であり、「かぶき」精神を極めた天下の茶匠です。
数寄者の大御所であった織部は、徳川将軍家の茶道指南という立場でありながら、豊臣側への内通の疑惑を持たれ、捕らわれの身となっていました。
織部は、この疑惑に関していっさい弁明をせずに突っ張りとおし、みごと腹を切ってみせました。
そのためにことの真相は永遠の謎となったのですが、織部が秀頼と淀殿の命だけは救い出そうとしていたことは皆の周知するところであり、織部の心意気は、彼の門下をはじめとする様々な文化人に感銘を与えたのです。
そして、その織部の弟子であった飛騨高山城主・金森可重の嫡男である重近。
彼もまた、織部の精神を受け継いでいたのでしょうか。
重近は、父や弟の徳川軍に参ずるとの意向に激しく反対し、それが原因で、金森家が出陣する日に父に勘当され、ついに武士を捨てて、母とともに京都に移り住むことになります。
大徳寺に参禅した彼は、そこから金森宗和と名のり、織部から引き継いだ陶芸世界をさらに華美なものへと発展させて、その才能を大きく開花させていくことになるのです。
また、三河武士の英雄と呼ばれた石川重之は、大坂の陣で駆け抜けの活躍をしながら、結果的に軍令違反の処罰を受けることになりました。
「勝手にひとりで攻撃するなって、何回も言ってんだろ」と叱責を受けます。
個人の活躍よりも集団の組織が重視される、もう、時代はそんな風に変わっていたのです。
そんな秩序が確立されている世界なら武士なんか捨ててしまえと、彼は学問の道に進むことになります。
やがて、石川丈山と名を変えて、京都の一乗寺に詩仙堂を営み、「日東の李社(日本の李白、社甫だ)」と称えられたのでした。