京都市民が待ちこがれたその人
元和6(1620)年6月、二代将軍秀忠の娘・徳川和子の入内を一目でも見たいと、京都・洛中の街路には群衆があふれていました。
至美至高の行粧をこらしたその新しい女御入内は盛大に営まれたのです。
この時期の朝廷と幕府の微妙な関係は、和子によって向き直られ、改めて繋がりはじめることになります。
大坂の陣いらい、わだかまりのあった朝幕関係は、どうしても円滑にいっていないものがありました。
新女御・和子は、冷ややかな禁中の女官たちの眼と、物々しい武士たちに囲まれて、わずか14歳、内向きの小さな心を抱えていました。
ですが、後水尾天皇と女御・和子との間を包み込むようにとりもったのは、天皇の生母・中和門院でした。
ときには太陽のように、ときにはそっと日陰のように、和子のことを中和門院は優しくかばわれました。
暖かな姑の思いやりにこたえるように、和子の心も開かれ素直になり、宮廷の空気はしだいに和やかになっていったのです。
そうしたなかで、天皇も和子への愛情をますます深められることになりました。
女は大地の風 飾らない素顔
元和9年11月、和子は女一宮興子内親王(のちの明正天皇)を生み、それと同時に中宮に進み、それから10年間で7人の子女を儲けます。
天皇を中心とした人間的な幸福を育て上げた彼女は、その後、一度も故郷の江戸に帰ることなく、大地の風のような飾らない生涯をただ宮廷の人として貫いたのです。
後水尾天皇が興子内親王に譲位ということになって、和子も東福門院を称することになりました。

東福門院和子の生き方は、たびたびおこった朝幕関係の危機を救っただけでなく、伝統を重んじる京都の雰囲気を大切にし、京都文化の復興に大きな足跡をのこしています。
そう、まさに彼女こそが、この緊張感があふれていた時代を緩和せしめる唯一の平和の架け橋だったのです。
守られた王朝の伝統と寺社復興
京都に数多く遺された後水尾院の山荘や宮廷文化も、東福門院の配慮なしには考えられなかったといっても、決して言い過ぎではないでしょう。
そして、いにしえの王朝の伝統を守るために、三代徳川将軍・家光が復興させた下記にしめす数々の寺社は、いうまでもなく妹でもある東福門院の意図に従ったものでした。
平安時代以来の舞台造りが継承されてきた清水寺本堂。
巨大な檜皮葺の屋根に覆われたこの洗練された建物は、寛永の火災によって焼失しましたが、家光によって再興され現在に遺ります。
また、京都のシンボルともいわれる東寺では、天正13(1585)年におこった地震で大破していた灌頂院が寛永11年に、この翌12年に火災にあった五重塔は明正天皇の勅命で家光が再興させました。
再三罹災と復興を繰り返してきたこの五重塔は、家光の復興をきっかけにして極力古代の様式を再現し、その姿を保持する努力が現在まで懸命におこなわれてきました。
さらに、洛北の名刹・仁和寺では、慶長造営の紫宸殿が金堂に、清涼殿が御影堂に移築されました。
そして、ぜひ来訪をおすすめしたいのが、訪れたなら王朝文化をその肌で満喫できる大覚寺です。
先に述べた、東福門院の入内のさいに御所のなかに建てられた女御御所が移された寝殿および正寝殿は、狩野山楽が描いた華麗な障壁画で飾られています。
まさに、大覚寺は、後水尾・明正・霊元という歴朝の庇護を受け、門跡寺院にふさわしい禁裏の諸旧殿が移築された巨刹なのです。
東福門院によって、京都の歴史にとって重要な意義を持つ王朝の建造物が、この時代に数えきれないほど再興されています。
それらはほとんどが復古建築ですが、そこには、王朝文化の復興という時代思潮が根柢に強くあったのでしょう。
もう少しで宮廷に華が咲く
和子が入内するときの話ですが、幕府の重臣を従えた彼女は江戸を出発し、旅程20日を費やして東海道を上り京都にたどり着きました。
やがて、和子の御輿がはじめて御所に入ったとき、出迎えていた女官たちが、御輿の物見を開いてお顔を拝したいと申し出たのです。
すると、すぐさま行列に随従していた鬼武将・藤堂高虎が大声をあげて、これを制します。女官たちは畏怖して震え上がり、足早に立ち去りました。
それは、まだ公武の習慣上の相違が、ストレートに対立に結び付くような雰囲気だったことを現していたんですね。
このとき和子は、少し驚いた様子を見せたのですが、すぐに目を伏せ、いつものように静かに微笑んでいたそうです。