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京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

相国寺  天を支配しようとした将軍 足利義満

カオス

足利尊氏によって室町幕府は開設されましたが、二代目の義詮(よしあきら)の段階までは、足利家が全国を統一したとはとても言えない状況でした。

そう、国家の最高権威である朝廷が北朝と南朝に真っ二つに分かれているという事態はまだ克服されていなかったのです。

この内紛に対して、政治家として、尊氏や義詮にはそれを解決できる力量を持ち合わせていませんでした。

これは、なにも尊氏や義詮が無能だったからということではなく、国家レベルの内紛であるがために、並の人間では簡単に治められる問題ではないからです。

ところが、これらを一気に解決へと導いたのが、怪物政治家と呼ばれた三代将軍・足利義満でした。

室町幕府史上もっとも巨大な権力を築いた義満。

でも現状に満足していなかったこの将軍は、なんと、天皇家の王朝を廃し、足利氏の王朝を創ろうとしたのです。

モニュメント

明徳3(1392)年、後小松天皇の勅命によって建立された相国寺。

相国というネーミングは当時、左大臣だった義満自身を表したものです。

相国とはお隣の中国では左大臣以上の役職を指す言葉で、そこには、やはり義満の記念碑として建てられた意味合いを含んでいたのでしょう。

現在では遺されていませんが、この時、相国寺には「七重大塔」と呼ばれた日本史上最も高かった塔がそびえ立っていました。

平安時代に白河法皇が建てた「九重大塔」86メートルを遥かに越える109メートルの高さを誇っていたのです。

当時の京都にこのような巨大モニュメントが出現すれば、庶民たちの注目の的になることは間違いありません。そう、義満の狙いはそこにあったのです。

自分がいかにこの国にとって重要な人物であるかを、義満は都に住む京都市民たちに知らしめたかったんですね。

当時の日本には今と違ってテレビも新聞もありません。ですから、それに代わる大デモンストレーションが必要だったのです。

そして用意されたのが「七重大塔」の落慶供養というイベントでした。

この落慶供養という完成披露会によって義満の権力は都に留まらず全国に広まることになりました。

現在、金閣寺のある場所は北山第と言われる義満の広大な敷地の豪邸だったのですが、そこに全僧官、延臣が集合して相国寺に向かう義満を土下座して見送ったのです。

さらに、人々に強烈なインパクトをあたえたのが、宗教界で最高の権力を持っていた青蓮院・尊道入道親王と仁和寺・永助法親王という二人の皇族が、みずから望んで義満を迎えに向かったことでした。

そして、この時の警備にあたっていた全国から召集されていた武士たちは、天皇をも凌ぐ義満の尊大ぶりを領国に戻って吹聴したんですね。

からくり

日本史が始まって以降、武家が公家の任命権を手に入れるなどということはあり得ませんでしたが、この人事権を奪取したのが義満でした。

北朝の後円融天皇が亡くなった後、後継者の後小松天皇がまだ17歳だったのを幸い、天皇家から人事権を奪ってしまったのです。

つまり、こういった権限を手に入れた義満だからこそ、二つに分かれてしまっていた朝廷を再び統一することが出来たんですね。

 

義満は南朝側に対して、北朝の後小松天皇に三種の神器を引き渡すことを条件に、南朝の後亀山に上皇の尊号を奉ることを約束しました。

これはどういうことかと言うと、三種の神器は正式な手続きを持って後小松に渡されるのだから、渡した後亀山は引退し「上皇」になるはずです。

後亀山が上皇になるということは、後醍醐の吉野へ脱出以来の(後醍醐―後村上―長慶―後亀山)という南朝の系譜の天皇が全て正当なものと認められることになるので、南朝にとっては非常に有利な条件なのです。

だから北朝は後亀山を上皇にするなど絶対認めないという態度で挑むのですが、義満はこれを強引に押し切ってしまうんですね。

そして後亀山は上皇の尊号を得ました。とにかく三種の神器さえ北朝側が手に入れてしまえばそれでいい、それがこのときの義満の心境だったのでしょう。

なにしろその後は、北朝主導で南北を統一して一つのものとし、最終的には天皇家に代わって足利家の王朝を建てることしか考えていなかったのですから。

義満の最期

応永15(1408)年、義満が溺愛した息子の義嗣(よしつぐ)の元服は宮中において行われました。

そう、特別に親王(天皇の子)という格式に準拠して元服したのです。

ついに、ここに義嗣「親王」は誕生しました。

さらにその夜、小除目(こじもく)【臨時の人事令】が行われ義嗣は参議に任じられ従三位に叙せられることになります。

息子の義嗣を天皇にして、自らは太上天皇(上皇)となって足利家が日本を支配する。義満の計画は、まさに成功の一歩手前までのところまできていたのです。

ところがこの義嗣の元服の翌日、義満は突然に発病しています。すべての準備が整ったこの段階で、突然にです。

そして発病から一週間後、怪物政治家と呼ばれた足利義満は呆気なく息を引きとりました。享年51歳。

あまりにも突然の出来事だったんですね。天は義満・義嗣親子に味方しなかったのだと、幕府や足利家の誰もが惜別の念に堪えなかったといいます。

ただ、古代から歴史上、天皇家を乗っ取ろうとしたのは、後にも先にも足利義満ただ一人でした。

皇室や朝廷の誰もが「まさか、そこまでしないだろう」と思っていたはずです。

彼自身はおそらく死を覚悟していなかったのでしょう。没後のことについては何の遺言もありませんでした。