天台宗・真言宗の寺院に多い門跡寺院
王朝文化が築かれた京都には、皇室と深いつながりを持つことで存続してきた寺院が数多くあります。
いわゆる門跡と呼ばれる寺院なのですが、それがよく分かる特徴として、御所の旧建造物が移された堂宇がよく見かけられます。
真言宗山階派大本山である勧修寺も、その典型的な宮殿建築群として知られているんですね。
では、長い歴史のなかで、京都において皇室と大寺院はどのような繫がりを持ってきたのでしょうか。
この国では、古代から、皇室で継承される天皇というのはただ一人です。
では、その兄弟、姉妹である多くの皇族たちはどういう状況だったのかというと、すべての人たちが高い地位につくということはやはり難しい状況だったといえます。
よって、はじめから臣籍に下って養子にはいったり、当時の特権階級である僧侶になることが考えられました。
有力な寺院は広大な所領を持っているので、受け皿には余裕があり皇族出身者を迎え入れることが出来ます。それが、いわゆる門跡制度と呼ばれるものです。
寺院側からしてみれば皇室の権威を飾ることが出来て、さらには、天皇家と縁故を持てるメリットもあったのです。
門跡寺院は天台宗・真言宗の寺院に特に多く見られるんですね。
孫のために兵を出した小倉実起
勧修寺は、南北朝時代に後伏見天皇の皇子である寛胤(かんいん)法親王が入寺して以来、宮門跡となり栄えます。
そして、1682年の霊元天皇の皇子・済深(さいじん)法親王が寺の長である時に、勧修寺に現在ある建物のほとんどが建造されたのです。
霊元天皇と大納言小倉実起(さねおき)の娘の間に生まれたのが、一宮すなわち済深法親王です。
霊元天皇は長男である一宮を寵愛し、ゆくゆくは皇太子にするつもりでした。しかし、しばらくして天皇は側近の公家などの干渉もあり、五宮すなわち朝仁親王を皇太子に立てます。
霊元天皇は11才になった一宮を大覚寺に出家させようとしますが、一宮は「出家はいやや」と泣いて抵抗しました。
ここで信じられないことに、祖父である小倉実起は一宮の抵抗を助ける為に兵を出し、天皇の怒りを買い佐渡に流されてしまうのです。
しばらくして、騒ぎが落ち着いた後、一宮は勧修寺に送られ剃髪し済深法親王と名乗ることになります。
それから5年後、朝仁親王は東山天皇として即位されて、翌年は元禄と改元されました。
この時、済深法親王18才になり立派に成長して、二品に叙せられ東大寺の別当に補せられます。
そして、東大寺大仏殿再建に対しての親王の甚大な功が認められ、勧修寺の寺領が1012石に大きく加増されたのです。
そういう事情もあって、勧修寺がいまもその法灯を守り続けてこれたのは、まさに済深法親王のおかげなのだと、山科の地では語り継がれているのです。