真理だけを突き詰める
22の塔頭寺院とふたつの別院で構成される、広大な境内を持つ大徳寺。
臨済宗大徳寺派の大本山として、禅の道場の使命を果たし続けてきました。
風情ただよう石畳の通路、新緑と花々に彩られた聖空間の古刹。
千利休をはじめ多くの茶人が参禅帰依しています。
同じ臨済禅の南禅寺や東福寺とは違い、大徳寺は観光地化されていません。
ときの権力者に翻弄されつつも「なによりも修業が優先される。一日中悟りを求め参禅し、真理だけを突き詰めろ」と、厳格な禅の教えに専念することを貫き通してきたからです。
そのために、ほとんどの塔頭や本坊が非公開なのですが、各季節ごとに、一時的に公開されることがあります。
うまくタイミングがあえば、大徳寺は、まさに京都観光の穴場と言えるのではないでしょうか。
楼閣・金毛閣
天正17年、天下第一の茶匠・千利休によって大徳寺の三門は、楼閣・金毛閣に造替されました。
利休モデルの木像を楼上に安置させて下さいと、敬意をこめて寺から提案があったので、利休は戸惑いながらも受け入れたのです。
ところが、参詣するために誰もがくぐる三門の上に、雪駄履きの像を立てるとはなにごとかと、そこはわしも通るのだぞと、秀吉が激怒します。
これが自刃の理由で、利休は切腹を命じられることになるのですが、不思議なことに秀吉が怒りだしたのは、造替から2年もたった天正19年のことなんですね。
じつは、秀吉の茶頭であった利休は、政治的な面でもかなり重要な位置を占める側近的な存在でした。
おそらく、秀吉の部下たちの間で進行していた深刻な権力闘争に巻き込まれた為に、利休は命を落としてしまったのではないか。
そういった説が、歴史研究家の間では現在有力になっているのです。
秀長 その偉大な人
当時の豊臣政権は二つの勢力に分かれていました。いわゆる政権派閥です。
ひとつは北政所・ねね(正夫人)、秀吉の弟であり名補佐役の豊臣秀長、そして利休の3人を中心とした勢力。
それに対して、もう一方は、淀君(側室)、石田三成、増田長盛を中心とした勢力といったように、ふたつの派閥に均衡され分かれていました。
この時期に、政権の安定に欠かせない秀長が病死してしまったために、利休は大切な庇護者を失い窮地に立たされることになります。
そう、石田三成や前田玄以といった集権派グループが牙をむき、利休糾弾へと動きはじめたからです。
利休を慕っていたという秀長は領民に思いやりある政治を行い、一方で見事なまでに家臣団を統制したと伝わります。
まさしく理想の政治を行ったといえる秀長を失った豊臣政権は、ここからイバラの斜面を転がりはじめ、同時に三成の暗躍がここに始まるのです。
堺を制するものは日の本を制す
なぜ、今井宗久、津田宗及、千利休といった堺町衆の茶人たちを茶湯者として、信長や秀吉は重く用い大切にしたのか。
それは、彼らの持つ(情報)という最も貴重な判断材料が必要とされたからなんです。
世界貿易都市・堺の商人の耳には、日本各地はもちろん海外諸国からの膨大な情報が流れ込んできます。
そして、茶室という密室に豪商たちは集まり、その情報はまた拡散される。
信長も秀吉もその飛び交う情報をもとめたのです。
さらに堺をつかむということは、日本貿易の窓口を押さえるということであり、最新の鉄砲武器や硝子、鉛などの軍需物資も、意のままに手に入れることができたのです。

ですが、やがてその前途にかげりが見えはじめ、潮の流れが変わっていきます。
天下を掴んだ秀吉に恐れるものはなくなりました。そこに向かうまでの発展途上の段階であったから、堺の町衆の情報力が必要だったのです。
もはや、自治都市、治外法権を謳歌する堺町衆など無用の存在、いや、目障りな存在といえるまでになってきたのです。
秀吉の命を受けた石田三成は堺奉行となり、堺の町をみずからの直轄都市として、水も洩らさぬ支配下として取り込んでいきます。
正親町天皇から「利休居士」の居士号を賜わり、天皇への献茶に赴いた天下一の茶人。
その盛名高き千利休の立場は、にわかに色褪せはじめたのです。
ある日のこと、秀吉は三成につぶやくようにこう尋ねます。
「金毛閣の二階に、利休の木像が立っているそうだが~、わしも、そこをくぐるのかのぅ。」