俗界から仙境に足を踏み入れる
洛北の一乗寺下り松という場所にある名勝詩仙堂は、石川丈山(じょうざん)が晩年の31年間を過ごした建物です。
丈山がこの場所を選んで造営、移住したのが江戸時代初期の1642年、59才のときです。
建物は一階は蜂要(ほうよう)といい、二階は吐月楼(とげつろう)と名づけられています。
入口から80メートルほどの、高いもみの木と竹のトンネルをくぐると、完全に俗界から仙境に足を踏み入れた気分になります。
初夏に詩仙堂を訪れると、竹の幹の緑が見事な美しさで、こういったアプローチが京都の名所で他に類を見ないのも、詩仙堂の大きな魅力のひとつです。
日東の李社(日本の李白、社甫だ) 石川丈山
詩仙堂の名のおこりは、中国の漢代から宋までの代表的詩人三十六人の画像を狩野探幽に描かせ、丈山がそれに詩をかいた画賛を詩仙の間に掲げているからです。
丈山は、詩人、文人、茶人、書家として優れた人物で、桂離宮、一休寺、渉成園の造庭にも深く関係しています。
当時の文化人との交流もひろく、松花堂昭乗、角倉素庵、野間三竹なども詩仙堂を訪れています。
そんな丈山は、59才でこの場所に来るまでは、どんな生き方をしていたのでしょうか。
丈山は18才で家康の家臣になり、駿河の清見寺で参禅して袈裟を与えられたり、詩文について教えを受けたりしていました。
ですが、大坂夏の陣で、家康が一番乗りを禁じたのにもかかわらず、丈山は先陣し桜門で大暴れします。家康は激怒し、丈山に蟄居を命じました。
実は同じような行動をとった人物は、他にも2,3人いて皆しばらくして復職を許されます。でも丈山だけは、家康の元には戻りませんでした。
主君のために、己のプライドのために危険を顧みず、真っ先に敵に向かっていき武勲をたてる。丈山は「そんなんは、もうええわ」という心境でした。
その後、洛北市原にいた儒学者の藤原惺窩を訪れ、林羅山や角倉素庵と文集の編集なども手掛けます。
そして、しばらくして広島の浅野家に仕えますが、これは年老いた母親の世話をするためでした。
浅野家は丈山を重宝して、二千石の禄高と、広い屋敷を与えます。丈山はこの時、母を伴って厳島など名所を訪れ、多くの詩をつくっています。
浅野家では、14年間仕官を務めましたが、母が亡くなると辞任して京都に帰ります。
また、京都では朝鮮通信使入洛にともない、詩学教授の接待役なども務め、「日東の李社(日本の李白、社甫だ)」と称えられました。
丈山は、詩仙堂に31年住み、90才で亡くなりました。彼が生前につくった自分の墓は頑仙祠(がんせんし)という名です。
「もう少し、ありのまま、もう少し、かたくなでいいんじゃないか」
丈山は、そんなふうに、世にすねた自分でいたかったのでしょう。