京都案内  こうへいブログ  

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平安神宮  再現された ありし日の平安京と王朝文化

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日清戦争が起こって1年延期される

桜の見どころで有名な平安神宮は、明治28(1895)年に創建されました。

平安遷都千百年祭の記念殿として建てられ、同時に、第四回全国勧業博覧会が開催されました。

本来この2つの記念祭は、前年の明治27年に開催される予定だったのですが、この年に日清戦争が起こったために記念祭どころではなくなったんですね。

ところが、翌28年2月に日本が戦争に勝利したので、結果的に1年延期された記念祭は盛大に行われる事になります。

そして、この延期によって平安神宮の設計は大きく変わってしまったのです。

当初の計画は、平安時代の規模をそのままに、大極殿を中心に朝堂院12堂すべてが並ぶ再建計画でした。

ですが、朝堂院の門である応天門と、正殿である大極殿だけの再建になってしまったのです。また、大きさも、原寸どおりにするはずが、8分の5に縮小されました。

もし最初の再建計画の平安神宮が建てられていたなら、この辺り一帯の風景は全く異質のものになっていたのでしょう。

王朝文化が再現された京都を代表する観光地になっていたに違いありません。

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王朝文化の香り漂う社殿

それでも、この神社の壮大で優美な構造は、日本の他の神社では類のないものです。

平安神宮の社殿は、平安京を偲ぶために造られたのであって、決してパビリオンやアクセサリーではありません。

現実に平安京がこの世に再現したように感じさせるために、境内の管理や手入れも実によく出来ています。

ありし日の平安京、王朝文化の建物のデザインの特徴を感じさせる、朱丹の柱、瑠璃の瓦、白亜の壁。

その中でも碧瑠璃(へきるり)の瓦は日本の他のどこにも見られません。赤焼の瓦に、酸化銅のはいった緑釉をかけたものです。

平安京のほとんど主な建物がこれで葺かれていました。唐を意識した大陸文化を取り入れた造りですが、高度な技術と大きなコストを必要としました。

隣国、唐を当時の平安貴族は常に意識していたのです。