大覚寺   京都に意外と少ない 宮廷の美学を感じられる皇族の寺

 

嵯峨天皇離宮から仏寺に

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大覚寺のある嵯峨は、平安時代初期に嵯峨天皇離宮嵯峨院」があり、譲位後も仙洞御所として住まれていた場所です。
嵯峨天皇の没後、皇女の正子内親王嵯峨院を寺にあらため、876年に清和天皇から大覚寺の寺号を賜りました。初代門跡は恒寂(ごうじゃく)入道親王です。

嵯峨天皇空海の繫がりの絆を深く感じられる寺であり、優美で繊細な宮廷の雰囲気が漂っています。
この寺の中心は嵯峨天皇が筆写された紺紙金字の般若心経を納める心経殿です。この般若心経は、818年に飢饉に加えて流行病が蔓延した際に、空海に祈願させるとともに、帝みずからが筆写されたものです。

 

後宇多法皇によって新しく再興される

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後宇多法皇は1308年に大覚寺に入ってさびれていた伽藍の整備を進め、1321年にはほぼ寺観を整えます。
当時の大覚寺を描いたと伝えられる古絵図が残っていて、その絵図を見ると、大沢池の北に院の御所の壮大な建物があり、その西には金堂や御影堂などが並んでいる配置になっています。

後宇多法皇空海真言密教に対する信仰はかなり深く、「弘法大師伝」や「御手印遺告」などの書物を遺されています。
真言密教の法流は、嵯峨広沢の遍照寺や御室の仁和寺を中心とする広沢流と、山科小野の随心院醍醐寺を中心とする小野流の二つにわかれていましたが、法皇は両流派から伝法灌頂を受けています。

 

狩野山楽が描いた宮廷の美学

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大覚寺の宸殿と正寝殿は、江戸時代初期に東福門院の女御御所が移された建物だという説が有力になっています。
東福門院は徳川二代将軍秀忠の末娘和子です。秀忠は娘と天皇の間にできた、徳川の血をひく孫を天皇にしようとして強引に和子の入内を実現させました。東福門院は賢い女性で公武の和解に尽力し、宮廷文化の保護者として一生をまっとうされました。

宸殿および正寝殿は華麗な障壁画で飾られていますが、その作者が厳密な美術史研究により狩野山楽である事が確かめられました。
この女御御所は1619年に建てられたもので、山楽が障壁画を描いたのは61歳の時と確認されています。

天才画家、狩野永徳の亡き後、長男光信(みつのぶ)に家督は継がれましたが、時代を切り拓いていけるほどの器ではなかったようです。
それよりも狩野の姓を永徳に許された、血縁のない山楽のほうが周りからは後継者と認められていました。宸殿の牡丹図と紅梅図は多くの美術史家に、山楽が宮廷の美学を示した傑作であると絶賛されています。