こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

自然と人間との対比を描く散文の骨法  空気を支配する描写力

主人公の心理描写と外界の情景描写をつなぎ合わせるために、主体の表現位置を明確に示す。

それが小説物語を展開していく上で最も有効的な手法だいうことをこれまで学んできました。

主体の自己位置が表現され、外界はそれとの関係において表現される。その位置関係が文章を形作っていくんですね。

では、大江健三郎の文章を例に、自然世界に人間の感覚器官が見事にぶつかりあった表現巧な散文を見てみましょう。

雨の早朝、主人公(バード)は「赤ちゃんに異常があります」という電話を受け、自転車で病院へ向う。

客観世界に怯えながらペダルを踏むバード。彼は、自分の五感が全開していくのを感じはじめる・・・

・・・バードは風圧にさからって上体を右にかたむけ、自転車のバランスを取りながら走る。

舗道のアスファルトを水の薄い膜がおおっているのを疾走する自転車のタイヤがこまかく波立たせ小さな霧のように飛び散らせる。それを見おろしながら体をななめにかしがせて自転車を走らせているうちに、バードは眼まいを感じる。

かれは顔を上げた。見わたすかぎり夜明けの舗道にはいかなる人影もない。舗道をかこむ並木の銀杏は濃く厚く葉を茂らせ、それら数しれない葉のそれぞれが豊かに水滴を吸いこんで重おもしくふくらんでいる。

黒い樹幹が、深い緑の海のかたまりを支えているのだ。もしそれらの海がいっせいに崩壊したなら、バードは自転車もろとも、青くさく匂いたてる洪水に溺れるだろう。

バードは樹木群がかれを脅かすのを感じる。はるか高み、梢のあたりの秀でた葉むらは、風にざわざわ鳴っている。

バードは茂った木立に狭められた東の空を見上げた。

いちめんにそこは灰黒色だが、その奥底にわずかながら薄桃色に滲んでいる陽の気配がある。卑し気に羞じているような空と、駆けるムク犬のように荒々しくそこを乱している雲。

数羽のオナガが、バードのすぐまえを野良猫さながらふてぶてしく横切ってかれをよろめかせた。バードはオナガの群の淡青色の尾に銀色の水滴がシラミのようにたかっているのを見た。

バードは自分が怯えやすくなっていること、自分の眼、自分の耳、自分の鼻の感覚が、過度に鋭くなっていることに気づく。・・・     (大江健三郎『個人的な体験』)

「走らせているうちに」「顔を上げた」「東の空を見上げた」「気配がある」「たかっているのを見た」というバードの表現位置が外界の情景描写と絡み合い、今度は「怯えやすくなり、感覚が過度に鋭くなっていることに気づく」という心理描写につながっていくさまが読み取れます。

これが明治以降、自然と人間との対比を描く散文の骨法と呼ばれるものなんですね。

文体に独特の表現が見られ、臨場感が溢れる表現力、その場の空気を支配するかのような描写力が見られます。

また、「舗道のアスファルトを水の薄い膜がおおっているのを疾走する自転車のタイヤがこまかく波立たせ小さな霧のように飛び散らせる」といった長い連体修飾節や、「バードは」という係助詞を使用する主題提示の繰り返しに、どこか翻訳調の雰囲気を感じさせられます。

気になったのが、「もしそれらの海がいっせいに崩壊したなら、バードは自転車もろとも、青くさく匂いたてる洪水に溺れるだろう」という心理描写です。

ここは明らかにバードの心理描写ではなく、天からの観点、つまり作者の声で表現されているんですね。

この文章はずっと主人公のバードの位置において描かれているとみられるのですが、「バードは溺れるだろう」と仮定を下すのがバード自身というのはありえません。

これは作者の表現位置と主人公の関係と言われていて、以前にブログ記事で取り上げた「詞」と「辞」、「辞」と「辞」という関係にかかわる問題になります。

そして、この問題こそが、小説のありようをそのもっとも深いところで規定するものなんです。