智積院   必見! 長谷川派による国宝の障壁画

 智積院は和歌山県の根来寺にルーツを持つ、新義真言宗を名乗る智山派の総本山です。

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新義真言宗は真言宗の改革派というべき院政時代の僧、覚鑁(かくばん)の流れをくむ真言密教です。覚鑁は高野山から根来山へ修学の地を移し、根来寺山内には多くの子寺や僧房が建てられました。智積院はその中でも最高学府でした。

根来寺には武装した「根来衆」という僧兵がいました。この根来衆が豊臣秀吉と徳川家康の戦いで家康に味方したため、秀吉から報復攻撃を受けます。

この時に智積院住職の玄宥(げんゆう)が京都に逃れ、洛東の地で智積院復興の基盤を造ります。そして、しばらくして家康が支配する時代になり、玄宥は豊国神社の一角を家康から与えられ、1601年、ここに智積院を本山とする真言宗智山派が誕生します。

 

徳川家の政治的意図と寺院の発展

玄宥がつくった智積院の基盤は、二世裕宜(ゆうぎ)三世日誉によって勢力を拡大していきます。豊臣氏滅亡後、家康は日誉に巨大な寺院の祥雲寺を与えます。
祥雲寺は秀吉が三歳で夭折した長男鶴松を弔うために建てた寺です。家康は、智積院に祥雲寺を与えることで、秀吉の栄華の跡を抹殺しようとしていたのです。

そして、時が流れ天和2(1682)年に祥雲寺の建物は火災にあいましたが、2年後徳川幕府により東福門院の旧殿を与えられ立派に復旧します。これにより、この地に豊臣家の面影は完全になくなりましたが、国宝である貴重な障壁画が奇跡的に残りました。

 

長谷川派による障壁画の制作

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秀吉によって祥雲寺が建てられた頃、京都では狩野永徳を中心とする狩野派が大寺院などの壁画制作を一手に仕切っていました。この時代に長谷川派が有名寺院の障壁画を描くことが許されるのは、簡単ではなかったのです。

頭領の長谷川等伯は千利休と懇意にしていたので、秀吉に紹介され祥雲寺の障壁画の制作という千歳一隅のチャンスを手にします。等伯は、芸術的天分の持ち主と呼ばれた息子の久蔵と共に、この仕事に命懸けで取り組みました。

完成後、しばらくして久蔵は26歳で亡くなります。等伯の悲しみは、はかりしれないものでした。ですが親子が遺してくれた素晴らしい作品は智積院で保存されています。その絵は桜と紅葉が中心ですが、その魅力を華麗にしかも哀切に描かれた作品です。