消えた京都の古き由緒ある寺院
草庵から出発した小さな寺院が伽藍寺院に発展すると、いちばん必要とされるのが建築費用でした。
大規模になればなるほど、宗派を問わず、お布施の集積だけではまかないきれなくなります。
最初の出費の大部分を援助してくれる「開基壇越」とよばれる大壇那が必要となるんですね。
その昔、いきなり開創から大伽藍で建てられた旧仏教系や禅宗の寺院では、皇室や公家、将軍家などがこれにあたりました。
どちらにしても、ひとたび灰燼に帰してしまうと、新しい大壇那をみつけて再興するのは非常に難しいのです。
たびたび莫大な寄付をしてもらえるはずもなく、戦乱の後だと大壇那自体が権力を失っているかもしれません。
応仁の乱によって、古き由緒ある寺院が次々と消えてしまったのもこのためなんですね。
長い暗黒の時代に終わりをつげたのが、桃山時代のはじまり、桃山文化が開花したころでした。
近世前期の平和の始まりですが、洛中では寺町・寺ノ内に、洛外では新地にとつぎつぎと寺院が復興していくのです。
なにがなんでも再興させる
禅宗最高峰の寺院である南禅寺も、応仁の乱によって焼亡して以来、なかなか復興のめどがたっていませんでした。
室町幕府の官寺として最高位にあったこの寺は、頼りにしている室町幕府そのものが衰退しているのですから話になりません。
なによりも、「無一文の体」と当時の史料に遺されているように、金銀が底をついていたのです。
慶長15(1610)年、この荒廃した南禅寺を何がなんでも再興させよとする一人の重鎮がいました。
それは、徳川家康の外交文書の書記役から最高参謀役まで昇進した以心崇伝(いしんすうでん)です。
その昔、37歳の若さで南禅寺の住持となった経歴は、彼の人生のなかで最も重要なターニングポイントだったのです。
さて、金銀を持たない状況で、崇伝はこの寺を建て直させなければなりません。目を付けたのは、幕府が施工している御所の造営工事でした。
御所の多くの建て替えられる建物のなかには、お寺でまだまだ使用できるものが沢山あるはず。うまくいけばただで払い下げてもらえるかもしれない。
処分の権利がどこにあるのかわからないので、崇伝は考えられるすべての方面に手をうつことにしました。
あらゆる手をつくす崇伝
崇伝はまず、京都所司代の板倉勝重のもとへと向かいました。そして、勝重から「後陽成天皇の意思次第ですので、幕府としては問題ないですよ」と、言質を取りつけます。
つぎに、朝廷側の実力者である前関白・近衛信伊を訪ねて「旧御殿の建物のなかから大小問いませんので、南禅寺に一棟、なにとぞご寄付願いませんでしょうか」と訴えました。
さらに、京都の豪商・亀谷栄仁や宮廷学者の舟橋秀賢などからも、朝廷に働きかけてもらうなど、持てるあらゆる人脈に手をつくして崇伝はことにあたるのです。
そしてついに、古い御殿をひとつ南禅寺に寄進しましょうと、朝廷からの決定が伝えられたました。
それは、女院御所(にょいんごしょ)の御対面御殿(ごたいめんのごてん)でした。う~ん、出来れば清涼殿が欲しかったと崇伝は思いましたが、なにはともあれ、無償払い下げの苦労はむくわれたのでした。
楊枝ほどの木も無くさないでね
取り壊しと材木などの運搬は、人件費を安く抑えるため、寺領である門前町の住人たちと塔頭の若い僧たちによって行われました。
崇伝は「ひとつ残らず忘れないように運んでな、楊枝ほどの木も無くさないでね」と声をかけ、建物の付属品の一つ一つに預かり証をとって境内の塔頭で保管させるなど、徹底的に指示しました。
こうして、出費を抑えに抑え、慎重に慎重を重ねた用心のもとに、慶長16(1611)年7月に移建は無事に終わりました。この完成した建物こそが、今も観光客でにぎわう南禅寺の方丈(国宝)なのです。
京都観光にお越しになられることがありましたら、訪ねられた寺院に禁裏(御所)から移建された建物があるか、ぜひ確認してみてください。
きっと、王朝文化の香りが伝わる御殿の魅力に、あらためて気付かれることでしょう。