孤高の日本画家が描いた天井画
京都の名刹、特に禅宗寺院にですが、法堂に龍の天井画が描かれている場所が多くあります。
これは、龍が仏法護持の神将として水をつかさどることから、「火災から建物を守る」という意味あいが含まれているんですね。
建仁寺の龍図は、2002年に開眼供養が行われたときに、創建800年記念の一環として描かれた、小泉淳作画伯の渾身の力作と名高い双龍図です。
小泉画伯は、美術団体に属することなく、一人独自の画境を切り開いてきた「孤高の画家」でした。
画伯の描いたこの双龍図は、畳108枚分という大きさに描かれているので、法堂の中に入ると非常に見やすく、大迫力の双龍に目を奪われます。
やはり、一流画家の真筆の本物を見ることが出来るというのは、本当にうれしい限りです。
さらにまた、見上げやすくて良く見えるスペースが確保されて、そこで写真撮影が許可されているのもありがたいことですね。
ですが、私のつたない写真ではうまくお伝え出来ないので、下の画像をお借りしました。
[http://京都フリー写真素材]
小泉画伯はこの双龍図を制作するために、77歳の時、北海道にある廃校の小学校に2年間住み込んで、たった一人で描き上げたといいます。かなりの大作のため、充分なスペースが必要だったんですね。
作品は、麻紙(まし)と呼ばれる麻をすりこんだ和紙に描かれていて、墨のほうは、中国の400年前、明の時代から現在に伝わる明墨(みんぼく)が使用されています。
36枚のパネル仕立てに描かれたこの作品は建仁寺に運ばれ、京都の表具師によって天井に貼り合わされました。
その仕上げを確認した画伯は、納得がいかない部分を感じ、細かい修正を描き加えられたそうです。
50年後、100年後には落ち着いた色合いが幻想的に加わり、おとずれた人々をさらに魅了するのでしょう。
京都で最初の禅宗寺院
建仁寺は、宋から禅宗とお茶を持ち帰った栄西を開山とし、建仁2(1202)年に創建されました。
栄西は二度にわたって宋におもむき、臨済宗の奥義を身につけます。
そして、宋での喫茶文化とお茶栽培を知り、それも持ち込んで京都に禅宗寺院を建てようとするのですが、旧仏教の反発にあい、その道は困難を極めたのです。
そこで栄西は、武士の勢いが強まるにつれ、布教の中心を鎌倉に移しました。
武士を禅仏教に改宗させる事によって日本を禅仏教の国にしようとしたのです。
鎌倉に日本最初の禅寺・寿福寺が建ったのは正治2(1200)年ですが、その2年後に鎌倉幕府の力を借りて京都に建仁寺は建てられました。