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伊藤若冲  京で描き続けた生涯 あきらめはしない

真物

享保元(1716)年、伊藤若冲は京都の錦小路で生まれました。

現在は、錦市場という名称で多くの観光客を招く賑やかな商店街ですが、もともとは魚や野菜の市場として毎朝雑踏をきわめた場所でした。

そこにあった青物問屋「桝谷」に長男として若冲はこの世に生まれ、稼業を継ぐことになっていたのです。

ですが商売というものにどうしても馴染めない彼は経営の全てを弟に任せてしまいます。

そして自分は錦小路の奥まった静かな場所にアトリエを建てて、作家三昧の日々を送ることになるんですね。

 

若冲作品のレパートリーの中心は何といっても動植物画であり、そのなかでもニワトリをモチーフにした作品がとくに有名です。

孔雀や鸚鵡となるといつも目にすることは出来ませんが、ニワトリなら身近にもとめられ、羽根の色彩も多彩なので観察の意義が大きかったのでしょう。

アトリエの庭に数十羽を放して、何年もの間繰り返し、その形状を写し続けました。

そのリアルな動きを直接に描写することに、若冲は意識の全てを集中していたのです。

古画の模写を後生大事にするという考えを良しとせず、「真物」の写形に精通するのを作画の第一義とする。そう、いわゆる写生主義です。

「動植綵絵」

明和3(1766)年、若冲が10年の歳月をかけて、40歳台のすべてをその制作に投入したという「動植綵絵」三十幅は完成しました。

それは絹地に驚くべき細密な手法で描かれた濃彩画です。

ニワトリをはじめ孔雀、鴛、などの鳥に、梅、松、向日葵、芙蓉、牡丹などの四季草花を配した花鳥図、花卉図が画題となっています。

相国寺をはじめ京都の各寺院に伝わる宋・元・明という中国画の手法を若冲が貪欲に学び取ったあとが、歴然としてそこに描かれ表現されているんですね。

また、この三十幅のうち七幅の作品がニワトリをモチーフに描かれているのですが、そこには色濃く、若冲自身のものとしかいいようのない特異な映像世界が見られるといいます。

同時代の京都画壇の大家・円山応挙の写生に比べると若冲の鶏の描き方は、器官の形、位置などが不正確であり、写生画としてはあまり優良点がつけられないと専門家たちは口を揃えるのです。

無論、若冲にとっては、そのような外形の正確な再現だけが重要だということではありませんでした。

大切なのは自身の内的ビジョンが強烈に表現されているかどうか。

観察写生はあくまでも、そうした固有の内的ビジョンを触発させるための手段にすぎないということです。

形状の精密なコピーだけならいらない。ユーモアやグロテスクな奇想がカクテルされた、なんとも不思議な表情がそこに描かれているのか。

色彩による幻想的な美しき表現、そこに、オリジナルで鋭敏な触覚を同時に持ち合わせてるのかどうかに、彼は最もこだわったんですね。

「動植綵絵」三十幅は相国寺に寄進され、その出来ばえは京市民の間で評判となります。

噂を聞きつけた京中の門跡たちによる、是非この目で見てみたいと願い出は、途絶えることのないほどに多く寄せられました。

さらに、この年に版行された「平安人物誌」というこの時代のトレンド誌に、円山応挙と池大雅の間にはさまれるように若冲の名が掲載されています。

若冲の意思とは関係なく、この頃から彼の名は急速に高まることになるんですね。

罹災からの再起

ですが、それからしばらくして、憂いなく好きな絵の道に没頭していた若冲の身に思いがけない不運が訪れることになります。

天明8(1788)年に起こった天明の大火災。

京都市内が空前の大火に見舞われ、中心部はことごとく焼き尽くされました。

この時、若冲73歳。錦小路にあった住居兼アトリエと、もうひとつ賀茂川のほとりにあった物件も全焼してしまい、多くの貴重な作品が同時に失われてしまったのです。

相国寺の伽藍群も法堂だけを残して燃え尽くしたのですが、住職たちの機転により「動植綵絵」三十幅は無事助かりました。

この生涯の大厄を乗り越えて、若冲はこの後、数々の代表作となる作品を世に残しているんですね。

73歳という高齢になってからの逆境にもかかわらず、若冲は決して人生をあきらめはしませんでした。

若冲の精神を支えていたもの。そう、それはもちろん作品制作という生涯を通しての生きざまだったのでしょう。

ここから、そうここから美術史上の歴史に残る数々の作品群を世に生み出しているんですね。

 

例えば、大阪は豊中市にある浄土真宗西本願寺派・西福寺の「群鶏図襖絵」。本堂の内陣と外陣をへだてる金襖六面に描かれた作品です。

まばゆい金地の平面を背景に、モチーフは得意の鶏とサボテンに厳しく限定されています。

狩野山雪、尾形光琳といった京都作家の諸先達が発展させてきた金地濃彩花鳥図の伝統を受けとめながらも、彼の強烈な個性がプラスされた新しい美の創作。

この作品によって若冲は、装飾画の伝統に対する独自のアプローチを達成させたのだと評価されることになります。

最晩年の境地

さらに、若冲が寛政12(1800)年、85歳の生涯を終えることになるわずか1年まえに描かれた作品「彩色花卉図」は、京都・東山仁王門にある信行寺の特別公開の時期に見ることができます。

若冲は天明の大火のあと伏見・深草の石峰寺の門前に住居を移しているのですが、その石峰寺観音堂の天井画だったのが「彩色花卉図」です。

寺の衰退によって明治期に人手に渡っていたものが、めぐり巡って信行寺の天井画として収まることになったんですね。

それは、百六十七ある格天井の四角のワクのなかに、円をしつらえ描かれた若冲の生涯を飾る傑作です。

その円周のカーブに調子をあわせて、牡丹、菊、鶏頭、紫陽花などの草花のさまざまな姿態が、円と楕円を主調とする軽やかなリズムによって無限のバリエーションを創り出しています。

そこにはもう、壮年期のギラギラしたアクは全て洗い流され、まるで、絵の「精」となってしまったかのような若冲の最晩年の境地が見出されているのです。