鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家の寄進によって建立された建仁寺。
武家の強力なバックアップを受けて、14世紀には、京五山第三位の臨済宗・名刹となりました。
現在では、禅寺にしては珍しく格式ばらない寺院として、境内のある祇園・花街の人々にも親しまれています。
謎多き天才絵師
そして、誰もが知っている有名な国宝の屏風がここに伝わります。
俵屋宗達 筆・『風神雷神図』2曲1双。これは、風神と雷神が躍動する、彼の最高傑作といわれている屏風画です。
17世紀前半の寛永年間の制作であり、宗達の真筆であることは確実視されているんですね。
(現在は京都国立博物館に寄託されていて、建仁寺にはキャノン高精細複製品が展示されています)
たしかな伝記もなく、生没年さえ不詳の謎であった宗達ですが、今まで知られる確実な情報がいくつかあります。
まず、京の富裕層の町衆であり、俵屋という屋号の大規模な絵屋(工房ギャラリー)の経営者であり絵師であったこと。
つぎに、本阿弥光悦と交流があり、光悦筆(書)と国宝級のコラボ作品を数多く遺していること。
さらに、晩年には法橋を叙位されるほど宮廷に名を知られていたということです。
都の名物となった俵屋の扇絵
おそらく、風神雷神図屏風を描く少し前の頃の話ですが、宗達が洛中で販売した、扇絵を中心とした屏風・色紙・短冊という作品群が爆発的に売れた時期がありました。
本阿弥光悦の活動時期とほぼリンクするので、江戸時代初期の元和年間(1615-23)の頃でしょうか。
その巧みさと鋭さがまざった巧筆の格調高い絵画作品は、都の名物と呼ばれるほど評判になります。
わざわざ日本全国から人々が作品を求めて訪れるほどの人気ぶりでした。
俵屋があまりにも有名な店になったために、宗達という個人名は隠れてしまい、彼自身の記録は残らなかったのです。
絵屋とはすなわち町絵師の活動であり、同時代の正統派であった狩野派や長谷川等伯などとは、異質の絵画様式を形成していました。
下手(げて)な魅力を感じさせるほどの単純で力強く自由な描写、独特の象形と豊かな色彩、そういった特色を備えているのです。
工芸的絵画の工房でありギャラリーでもあった俵屋という店で、制作と経営の両面に宗達は手腕をふるいました。
多くの人々の購買要求を満たさなければならなくなったほどの宗達の流行画。
この需要背景には何があったのでしょうか。
それは、やはり宗達の絶えることのない研鑽の姿勢によるところが大きかったのでしょう。
宗達の古典研究は尋常ではありませんでした。
人気のあった古い平安絵巻の大和絵や、宮廷様式の屏風の図柄を徹底的に分析し、それを自身の画風に取り込みます。
すると、新たな巧みで構成が配置されて、すべてが宗達の独創的な作品に生まれ変わりました。
「大和絵に息を吹き込む魔法使いのようだ」と、宗達は都の画商たちに噂されていたのです。
宗達 魔法仕掛けの構図
『風神雷神図屛風』の構図の特徴として、画面の両端ぎりぎりに風神・雷神が配置されていることがわかります。
二曲一双、それぞれ各双の内側反面は、ほとんど深い金地だけです。
つまり、風神は中央に向かって走り、雷神は中央に向かって視線を注いでいる。
そして、両神ともに空中に浮揚しています。
二曲の屏風の内側の広い部分は、ことごとく金だけで埋められています。
その金の世界、金の空間は、輝かしい外光をまず大きく受け止める。
それは、まるで反射板のように、さらに風神・雷神の姿を照り輝かせ、眩いものとしている。
そう、並べられた二曲のど真ん中に鑑賞者が座って見ていると、宗達は想定して描いているのです。
その前に座す人は、宗達の仕掛けにかかり、ある種の興奮を誘い出されることになるでしょう。
なぜなら、目の前にいる異形の二神を、その手に捕らえることの出来る魔神的な存在となっていることに気づくからなのです。