細川家のルーツが描出された古刹
「竹の寺」とよばれる地蔵院は、京都市の文化財環境保全地区に指定されている臨済禅宗寺院です。
1367年に室町幕府管領の細川頼之が創建し、細川家の庇護のもと北朝系の天皇の勅願時にもなりました。
それは17万平方メートル(甲子園球場が4つ入る広さ)の境内を持った一大禅刹だったのです。
ですが、応仁の乱によりすべてが焼失します。京都の寺社を語るときは、この応仁の乱による焼失を繰り返し何度も記さなければなりません。
それほどまでこの大乱によって京都は、徹底的に破壊され焦土と化したんですね。
観光客が少ない隠れた紅葉スポット
現在の境内は、江戸時代の1686年に寺観が整備され再建されたものです。
竹の参道、苔の参道、紅葉の参道の3つの参道は、静寂としていて、誰もが写真に収めたくなるほどの素晴らしい景色が広がっています。
泉涌寺の参道にある今熊野観音寺と共に、地蔵院はかくれた京都の紅葉スポットです。
ふたつの場所の共通点は、外側から眺めるのではなく、紅葉の林のなかに自分自身がうずもれてしまう様な感覚に包まれる、そんな体験ができるところなのです。
ここだけの話ですが、まだまだ知られていなくて人が少ないので本当におすすめなんですね。
また、方丈には「十六羅漢の庭」と称する平庭式の枯山水庭園がありますが、石の一つひとつが修行する羅漢をあらわしています。
この羅漢は男山の八幡宮に願をかけているので、その方向に少しずつ傾けてあるそうです。
足利義満を作り上げた細川頼之
そして、本堂にむかって左手に細川石とよばれる細川頼之の墓があります。
地蔵院には幼少時に夢想疎石の法話に感銘を受けた頼之が、禅宗の影響を強く受け終生信仰を貫いたと伝わっています。
頼之は四国の讃岐を本拠とする参謀型の名将です。
1367年、二代将軍足利義詮は当時11歳の義満に政務を譲ったあと、まもなく38歳の若さにして逝去します。
死期が迫るのを自覚していた義詮は、事前に義満の後見として頼之を管領に任命していました。
頼之は幕府体制をとりあえずえず安定させること。そして、後の権力者である足利義満という人物を作り上げるのに、重要な一翼を担うことになりました。
頼之の功績として最大のものと言われているのは、九州探題に今川貞世を起用したことです。貞世は頼之の期待に応え、九州の南軍追悼に大きな役割を果たしました。
そして頼之は義満が成人に達するやいなや、朝廷に速やかに義満の官位昇進を計ります。
この後、足利幕府の最大の繁栄期を築き上げる足利義満という人物とは、実は、こうした管領支配を基盤として作られていったんですね。