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京都観光案内 その裏に隠された物語のご紹介と、それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

徳川幕府と宗教都市・京都 家光によって完成された都の景観

本山と末寺

何千という寺院が密集する、世界的にも珍しい宗教都市である京都。

その京都に立ち並ぶ寺院の注目すべき特色、他とは違う点とはいったいなんなのでしょう。

それは、全国の子寺を統一する寺院、つまり「本山」寺院が多く存在するということがあげられます。

なかには地方に何千という末寺を持つ大規模な寺院もあり、一生に一度は本山参りといって京都を訪れる檀家の人も多いのです。

つまり、本山 ― 末寺 ― 檀家 というラインですね。

有名な神社というのも、明治になるまでは神仏習合で寺も社も一体だったのですから同じ意味合いを持ちます。

逆にいえば、そういう大寺院や大社が存在し無ければ、京都という都市は、本質的にはなんら特徴を持たない都市となってしまうわけです。

檀家とは、先祖の菩提を弔うために特定の寺を持ち、葬式や法事をするときにその寺からお坊さんに来てもらう家のことをいいます。

つまり、その寺が檀那寺であり、来てもらうほうが檀家です。多くの日本人が今もこの檀那寺を持っているのではないでしょうか。

また、その檀那寺が末寺になるのですが、それらを束ねるかなり大規模の本山となると、末広がりも尋常ではありません。

ひとつの宗派の頂点を総本山とすると、大本山、中本山、小本山、そして末寺と広がっていくのですが、正確には、本山と末寺という言い方は固定的なものではなく、一つの寺が上から見ると末寺、下から見ると本山という相対的な捉え方になります。

その数には多少がありますので、万をこえる末寺を持つ総本山もあれば、数十、数個しか末寺を持たない宗派本山もあるということになるんです。

現在に至っては、数千以上の末寺を抱える大規模な総本山は全国でも数えるほどしか存在しませんが、京都では、東本願寺、西本願寺(浄土真宗)、妙心寺(臨済宗)、知恩院(浄土宗)などがそれにあたります。

さらに大小の宗派本山については、それこそ一つ一つ寺名をあげることが出来ないほどの本山が京都にはあるんですね。

その本山のお寺たちには、地方に大なり小なり末寺を持ち、末寺には多くの檀家がついています。

檀家は末寺を通してさまざまな浄財を京都の本山に納められます。また、京都見物を兼ねた本山参りは、何よりも心ときめく小旅行だという檀家のかたも多いのです。

このように全国に足場を持っている本山寺院が密集している都市、それが京都という宗教都市の本質なのでしょう。

幕府公認の特権

では、こういった寺院本末制と呼ばれる本山と末寺の仕組みはいつから始まったのでしょうか。

宗旨や宗派によっても少し異なりますが、ひとつの目安として、寛永9、10(1632、3)年前後という頃がわかりやすいと思います。

徳川幕府、三代将軍・家光の時代であり、日本が鎖国へと突入する少し前、まさにキリスト教の禁教が完成された時代です。

家光は各宗派の総本山に命じて、統率している末寺たちの名前、所在地、山号、寺領などを記載したものを提出させました。

この帳面は末寺帳と呼ばれるもので、それは総本山の自主性に任された登記でしたので、正確なモノもあれば極めていい加減なモノもあったのです。

ただ、一旦提出され受理されてしまえば揺るぎないものとなり、修正や変更などは一切きかないという厳しい側面を持っていました。

この末寺帳に記載されるか否かということはお寺にとって非常に重要な意義を持ちます。

なにしろ記載されれば、いわば幕府公認ともいえるお墨付きの寺と認められ、寺地の免税や僧侶の課役免除という特権が与えられたのですから。

だから、中央政府である幕府、そして諸藩たちは新規の寺院が増加することをとにかく嫌い、それを懸命に抑え込もうとしていました。

なぜなら、寺院が増えるということはそれだけ租税が上がらないということであり、僧や尼ばっかりがこの国に溢れると、まるで生産力が確保できなくなるからです。

 

こうして近世の寺院本末制には幕府が介入して進められていくのですが、末寺の支配を徹底管理させるために本山の権利を家光は保障しました。

宗派の上部層は末寺の僧侶たちの任命権、昇進権などをすべて握り、間接的に支配するとともに、幕府の意にそって寺院の数の増減を調整していたのです。

つまり、この国の課役税収を減らさないように、幕府と各宗の総本山との間に綿密な打ち合わせがおこなわれていたということです。

互いの利益が損なわれないように上手く統制され、公権力は大規模本山や歴史的な大寺院を優遇していたのだといえるのでしょう。

二条城を含め、清水寺、東寺、仁和寺など現時点で世界遺産に登録されている京都の大観光寺院を、復興、再興させたのは全てこの時の家光の命によるものです。

さらに中小規模の寺社を含めれば、この将軍・家光の時代に京都の寺社仏閣はのきなみ復活を遂げたのだといっても、決して言い過ぎではありません。

これらは、寛永の王朝復興バブルと現在では呼ばれることになるのですが、その背後にはこういった寺院本末制に関わる談合制度も強く影響していたんですね。

たのむべき寺

そして、寛永12(1635)年、全国の民衆や村の百姓は、家族単位で、それぞれ一ヶ所だけ「たのむべき寺」を幕府に登録する義務が課せられました。

「たのむべき寺」そう、それこそが檀那寺であり、これを寺檀制度といいます。

この本山の管理のもとに、民衆が檀那寺を幕府や藩へ登録するという制度は1660年ころには、ほぼ、全国で完了します。

この時の先祖が檀那寺を申告した段階で、民衆一人一人の宗旨と宗派は決まり、彼らのただひとつの檀那寺は決定されることになったのです。

だから、これ以後の江戸時代の民衆たちは一人の例外も許されることなく、檀那寺を持った仏教徒となったんですね。

当然、その子孫が別の寺や宗旨がえをすることは許されません。

幕府という公権力が介入している以上、1660年代の、先祖が決めた宗旨、宗派、檀那寺を、延々と明治の初めまで貫き通さなければならなかったのです。

この寺檀制度は明治維新によって徳川幕府が倒れるまで延々と続きました。

幕府と仏教宗派というのは気の遠くなる月日の間、密接な関係を持ち続けることでお互いを支えあっていたといってもいいのでしょう。

だから新政府に幕府がその公権力を奪われたとき、廃仏毀釈の名のもとに全国の仏教寺院は徹底的に叩かれることになったのです。

たとえば、徳川家と最も深い繋がりのあった南禅寺、その歴史ある境内の真ん中を、貫くように洋風の赤レンガアーチが施工されたのはなぜなのか。

また、鹿児島県には観光で見るべきような寺院が全く存在しないのはなぜなのか。

まさに、これこそが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということなのでしょう。

道理

このように明治の初めになるとキリスト教も解禁され、信仰の自由が認められるようになりました。

当然ながら、寺檀制度の強制も解かれることになります。では、民衆はそろそろと檀那寺を変えるようになったのでしょうか。

そう、ほとんどの人たちが変えることはなかったんですね。というより、変えにくかったと言ったほうがいいでしょうか。

仏教というのは宗旨によって、説くところも来世の浄土も異なります。

日蓮系の人だと釈迦と多宝如来のいる常寂光の浄土へ、念仏系の人は西方の阿弥陀如来のいる国へ、密教系の人は大日如来の支配する浄土へと、各宗旨によって死後に生まれ変わる浄土が違うのです。

だから、子孫が宗旨を変えると、後世に先祖と別世界に行ってしまうことになるんですね。

ご先祖を何よりも大切にする多くの日本人にとって、どう考えてもこれは道理にかなわないことです。

今でも江戸時代の先祖が決めた宗旨、宗派、檀那寺をそのままに守っている日本人が多いという事実、それは「道理」、つまり、もっとも自然な行いと広く認識されているということなのです。