武将たちの栄華
室町幕府を事実上崩壊させ、一時、天下の支配者として君臨した戦国大名、三好長慶(ながよし)。
長慶が病死すると、その権力の全てを部下の松永弾正が奪うのですが、その弾正もあっけなく織田信長に敗死させられました。
その三好長慶の栄華をとどめるかのように、息子の義継が菩提を弔うために建立したのが大徳寺の塔頭・聚光院です。
大徳寺、そう禅宗寺院の境内に置かれた子院である塔頭(たっちゅう)というのは、本来、本寺の開山の墓を守るために、あるいは住持を辞した高僧の住む建物です。
それがのちに、戦国大名など寄進者である檀越(だんおつ)の墓所を設ける菩提寺的性格を持つものが多くなるのです。
大徳寺や妙心寺の塔頭寺院というのは、このように戦国の英雄たちのひとときの栄華の跡をとどめるために建てられたものが本当に多いんですね。
そして、実はこの聚光院には、あの千利休の墓があります。長慶は堺を一つの根拠地として活躍した武将であり、同じく堺の出身である同年齢の利休とは友人関係にありました。
長慶は連歌をよくし、茶をたしなむ、この時代を代表する文化人であり、その教養と美的センスを誰よりも利休は絶賛していたのです。
狩野派
この聚光院の国宝に指定されている障壁画を描いたのは狩野(松栄)・(永徳)父子です。
日本美術に少しでも関心を持つ人ならば、「狩野派」という言葉を一度は耳にされていると思います。
室町時代中期から江戸時代末期までの4世紀にわたって、朝廷と幕府の御用絵師として障壁画制作を独占してきた「絵師の家系」。
傑出した芸術家を幾人も出しながら、この国の絵画の歴史を創り上げてきたこの名家一族を抜きにして、日本美術史を語ることはできないのです。
また、注目すべきは、この聚光院障壁画を手掛けた狩野永徳こそが、幼少のころから神童と呼ばれ、一族のなかで最も天才的な筆力を持つ存在だったということです。
永徳の代表作として分かる国宝作品としては、信長が上杉謙信に贈ったという「洛中洛外図屏風」、宮内庁所有の「唐獅子図屏風」などがありますが、いずれも京都にあるものではないので、永徳神話が真実かどうかを確かめるには、この聚光院・障壁画が絶好の作品なのでしょう。
永徳は48歳という若さでこの世を去っているので、現存作品がほとんど残っていません。
彼が手掛けた安土城や聚楽第の障壁画も建物がすべて灰燼に帰しています。
そのため、現存作品は非常に貴重なものなのであり、しかも、そのわずかな作品群の中から現時点で5つもの絵画が国宝指定されているのです。
超越した才能を持つ芸術家
聚光院が建てられた永禄9(1566)年、この時、永徳は24歳で父の松栄は48歳でした。
障壁画のある聚光院の方丈は6間の間取りで、中央奥に仏をまつる「仏間」があって、その前が「室中」という最も重要な間になります。
室中の右に「札の間」、その奥に「書院」。室中の左に「檀那の間」、その奥が「衣鉢の間」という構成の6間です。
最も重要とされる2間である「室中」と「檀那の間」の障壁画を描いたのが永徳で、それ以外の「札の間」と「衣鉢の間」は松栄が描きました。
そう、この時の狩野派の総師であった父の松栄を差し置いて、息子である永徳が方丈で最も重要なふたつの部屋を担当しているのです。
その理由として、見事に成長したことで父を抜いた永徳に対する父松栄の、少し寂しくはあるが、温かい親心が感じられるのとともに、卓越した筆力を持つ永徳という芸術家が、他の画家たちとは一線を画した、もはや超越した存在だったからでしょう。
この永徳が描いた「室中」の四季花鳥図こそが、彼の比類ない天分が見事に花開いたことを告げる名作なのだと美術史家たちは口を揃えます。
梅の巨木を構図の軸とするこの作品は、まるで、この時の永徳の若々しい感性と満々たる覇気が画面の枠を打ち破って外にほとばしり出ているかのようだと。
ここから迎えるであろう安土桃山という時代、その新しい時代にふさわしい力感溢れるダイナミックな美の創出。
それを効果的・主体的に用いる永徳の超凡さこそが、彼が真の天才と称賛されるゆえんなのでしょう。
一方で、「檀那の間」の琴棋書画図に関しては、「若さからくる表現過剰ではないか」という辛口評価もでています。
それがこの作品を「名作」から遠ざける要因となっているのですが、数少ない永徳の現存作品として貴重な価値を有していることに間違いはないはずです。
金字塔
そして、この聚光院障壁画の制作からおよそ10年後、永徳は、新たな時代を象徴する歴史的建築物の障壁画制作を引き受けることになります。
そう、近世という新しい歴史を導いた武将・織田信長が、この狩野永徳という若き芸術家の作品群に強く心を動かされていたのです。
この時、雄大なスケールの着想によって、信長の天下布武の理想を体現した文字通りの金字塔、安土城天守の建造が開始されていました。
安土城天守は外観が五層で内部は七重になっていたのですが、その七重の障壁画制作のすべてを、永徳が率いる狩野一家に信長は依頼したのです。