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名詞化とはどういうことか? 「要するになに」「言い換えればどういうこと」

前回のブログでは、文末に「のだ」をつけて表現するには一定の条件が必要なのだということを説明しました。

「のだ」を使う場合は「前提」が必要となり、その前提の答えとなる「焦点」に対して「のだ」は付随するんですね。

今回はその「のだ」が文法的にどのように構成されているのか、また、語彙的にどのような振る舞いをするのかという観点から考察していきたいと思います。

「のだ」は、形式名詞「の」と、名詞にのみ付く助動詞「だ」が組み合わされた言葉です。

「の」+「だ」で、「のだ」ですね。

形式名詞は他にも「こと」「もの」などがありますが、動詞述語文や形容詞述語文の後に付くことでその文全体を名詞化させる働きを持つんです。

たとえば、

Ⓐ山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとした(の)であるが、頭が出口につかえて外に出る(こと)ができなかった(の)である。

という文の場合、「~外へ出てみようとした」という動詞述語文と「~出ることができなかった」という動詞述語文が形式名詞「の」によって名詞化表現されているのがわかります。

これを、

Ⓑ山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとした。だが、頭が出口につかえて外に出ることができなかった。

という動詞文に置き換えてみるとよくわかるのですが、Ⓑの場合は山椒魚の動きが描写文として淡々と描かれているのが見てとれます。

ところが、原文のⒶのように形式名詞「の」を使って表現されていると、物語ではあるのですけれど、これを書いた作者・井伏鱒二が説明調で語りかけてくるように読めるんです。

書き手の顔がそこに見えるという感じでしょうか、つまり名詞化されることで文章が「対象化」されているんですね。

よく、「すしのうまいとか「映画の面白いという言い方がされますが、これは「すしがうまい」「映画が面白い」という形容詞述語文に「の」を付けて対象化させているわけなんです。

形式名詞の「の」というのは、古来からの「もの」が詰まった形となった表現です。

「すしがうまい」という「出来事」を、「すしのうまいの」という「もの」に置き換えることが対象化させるということなんです。

「もの」に置き換える、つまり名詞化ですね。

助動詞「だ」というのは名詞に付くことしかできなくて、動詞や形容詞の後に続くことはできません。

「外へ出てみようとしただ」「外に出ることができなかっただ」という言い方は標準語では言えないんです。

だから、助動詞「だ」の前には形式名詞が配置されることになるんですね。

つまり、形式名詞が使われることで、動詞述語文や形容詞述語文が名詞述語文に変換され、文が説明的になっていくことになります。

ということは、書き手の思惑や主張がそこにあぶり出されるということなのですが、それは、名詞述語文というのは、いわゆるコピュラ文を形作る働きを持っているからなんです。

コピュラというのは主語と述語を結ぶ働きやテンスを表す働きしか持たない言語単位のことで、それによって構成される文はコピュラ文と呼ばれています。

コピュラ文の多くを示すのが、「同定文」と規定されているある対象を他の対象によって同定する文です。

つまり、言い換えですね。「つまり、なに?」「要するにどういうこと?」「言い換えれば、なに?」

そして、まとめられた文章というのも、また突き詰めれば、「言い換えればどういうことか」という点に課題設定されることになるのです。

そう、ひとつのテキスト構成の核となるのは、その答えとなる名詞述語文に他ならないんですね。