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京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

現代日本語の構造  テキスト全体の中から最も重要なセンテンスを選びだす方法

統一的な把握の方法

日本語における「複文」についての捉え方として、その考察が非常に有益であると評価されている二人の文法学者がいます。

一人は、前回紹介しました「象は鼻が長い」の著者である三上章さん。

そしてもう一人が、「文はどのような過程を経て成立するのか」という観点から従属節の分類を試みた南不二男さんです。

その南さんが、日本語の構造を統一的に把握する方法を見つけ出し、まとめ上げられたのが、今回紹介する「現代日本語の構造」という一冊です。

日本語の統一的な把握の方法。そう、おそらく南さんは、わかりやすく日本語の仕組みが理解できるよう、揺らぐことのない、独自の「法則」を見つけ出そうとされたのではないでしょうか。

南さんは、「複文」を従属節と主節からなる文と捉え、従属節の「文らしさ」という観点から「単文」から「複文」への段階を考えられています。

たとえば、私たちは文を繋げるときに、かなりの頻度で連用形や「て形」を使っています。いわゆる「し形」、「して形」固有の中立法と呼ばれるものですね。

わかりやすい例をあげると、

「彼に会って、本当のことを伝えよう」という文の場合、

補語「彼に」が「会って」を通過して、次の「伝えよう」にも係り、「彼に(本当のことを)伝えよう」という意味につながります。

補語「に」が、中立法の「って」をすり抜けているんですね。

「豆腐を8等分にして、電子レンジで加熱できる器に入れます」という文では、

「豆腐を8等分にして、(豆腐を)電子レンジで加熱できる器に入れます」という裏の性質を無意識に意味するのです。

先ほど「文らしさ」と述べましたが、言い換えれば従属節に独立性があるか、陳述度は高いのか、という意味合いが含まれます。


1)「康平が部屋に入って、明かりをつけた」

2)「康平が部屋に入ると、明かりをつけた」


1、2 の文は「、」を境にした二つの節から構成されています。

「入る」の格成分の枠組みは【が(動作主)、に(場所)】、「つける」の格成分の枠組みは【が(動作主)、を(対象)】ですから、前の節「入る」ではガ格と二格の、後の節「つける」ではガ格とヲ格が、文中に現れているか、もしくは文脈的に回復できなければなりません。

この観点から1,2を見ると、前の節ではこの条件が満たされていますが、後の節のガ格は同じ節内にはありませんから文脈的に回復しなければならないんですね。

ところが、1)「康平が部屋に入って、明かりをつけた」は、「康平が部屋に入って、(康平が)明かりをつけた」と自然に回復できますが、

2)「康平が部屋に入ると、明かりをつけた」は、「康平が部屋に入ると、(康平が)明かりをつけた」と言えなくはないのですが、日本語としては何か不自然です。

それなら、「康平が部屋に入ると、美穂が明かりをつけた」としたほうが自然な感じがします。つまり、「~と」の形は回復が困難なのだと言えます。

そうなんです、「~と」の形はガ格名詞句を通さずに、そこで食い止めるんですね。

ガ格を食い止めるということは、後の節である「明かりをつけた」が独自のガ格を取るということですから、それだけ、後の節の「文らしさ」(陳述度)が高いということになります。

補語が食い止められるかどうかで、節の独立性レベルが違ってくる、「テ形」と「ト形」では明らかに節の陳述度が異なるということです。

そこで南さんは、従属節がどのような要素を内部に含むのかという基準をもって、ABCDという4段階のレベルに陳述度を分類されたのです。

 

1)A類


a)康平はFENを聴きながら、勉強しました。


a)のナガラ節は、ガ格を含むことは出来ませんが、ヲ格などのガ格以外の格は含むことが出来ます。

少しわかりにくいのですが、a)の文の場合、主節は「康平は(が) 勉強しました」で、従属節が「FENを聴きながら」という文構成になりますので、

文全体には「康平は(が)」というガ格はでてくるのですが、従属節「FENを聴きながら」に独自のガ格を取ることは出来ないのです。「康平は(が)」がすり抜けなければならないのです。

つまり、従属節「FENを聴きながら」は、非常に陳述度が低く、文とはとてもいえないレベルになるんですね。

この他、A類に含まれる従属節は、

b)彼女は涙をふきつつ、私に手を振ってくれた。(ツツ節)

そして先ほど見た、

c)康平が部屋に入って、明かりをつけた(テ節)

d)康平が部屋に入り、明かりをつけた(中止節)

などが、ナガラ節と同様の振る舞いをすることがわかります。これらはいずれも、独自のガ格を新たに含むことが出来ないのです。

 

 

2)B類


e)雨が降ったのに、試合は(が)行われた。


e)のノニ節には、A類では含むことの出来なかったガ格が含まれることがわかります。そう、B類では独自のガ格を取ることができるんですね。


f)昨日あんなに勉強したのに、今日のテストはあまりできなかった。

g)この映画は全然面白くないのに、みんなが見に行っている。


いかがでしょうか、「ノニ」とくさびを打ち込み、明示することによって論理的関係で結ばれていることがわかるのではないでしょうか。

ノニ節と同様のBレベルには、「康平が部屋に入ると」という例文で先に見た、

 

h)私がオフィスで仕事をしていると、見知らぬ男が訪ねてきた。(ト節)や、

i)昨日より、一歩でも前に進んでいると自覚できれば、人は簡単にくじけたりはしないのです。(バ節)

j)雨が降ったら、泥のお家が流れてしまいました。(タラ節)

k)明日試合がないなら、ゆっくり休める。(ナラ節)  

 

などの例文に見てとることができます。

そう、ト・バ・タラ・ナラ、いわゆる条件法ですね。

このBレベルでは、あくまでも出来事の内容(命題)を完結できるだけで、話し手の捉え方や判断を表現することはできません。

 

✖ 雨が降るだろうのに、あの娘は出かけた。 

✖ 私は出かけようのに、雨が降ってきた。 

とは言えません。

 

「だろう」や、「よう」といった推量や意思といった表現を、このBレベルでは含めることはできないんですね。

これらの推量や意思は対事的モダリティと呼ばれる話し手の主観を表す表現です。

モダリティ表現は、これより先のCレベルにならないと使うことは出来ません。

そう、このBレベルと次に見られるCレベルの間にこそ、最も大きな断層が存在するのです。

なぜなら、Bレベルという命題だけの「ことがら世界」から、Cレベルという話し手の主観を含んだ「陳述的世界」へと様変わりする非常に重要な段階の狭間になるからなんですね。

 

3)C類


l)木村さんは出演していた(が/けど)映画はつまらなかった。

m)霧雨は降った(が/けど)歩道はあまり濡れていなかった。


このレベルでは、ガ節や、ケド節(けど、けれど、けれども)が出てきます。

ここまでくると、もはや、節というより二つの完成された文が繋ぎあわされているかのようです。このように、従属節の「文らしさ」の度合いというものがわかって頂けるのではないでしょうか。

また、Bレベルには含まれなかった主題を表す「は」という助詞も、このCレベルでは各節別々に独自に表われていることも見てとれます。

さらに、 

〇 雨は降るだろうが、私は出かける。  

〇 雨は降るでしょうが、私は出かけます

 

という対事的モダリティもここでは問題なしに許容することができるんですね。

ところが、このCレベルでも含むことができない要素があります。それが、対人的モダリティです。

4)D類


対人的モダリティは直接引用節で現れます。D類は単独の文とほとんど変わらないものです。


n)彼は私に「そんなにつらいなら、家を出て、うちに来いよ」と言った。


Cレベルに現れた対事的モダリティは、あくまで、命題の内容に対する話し手の捉え方を表すものでした。

それは、「呟き」「独り言」に近いのかもしれません。(ただ、聞き手に聞こえるようには、発しています)

でも、言葉はコミュニケーションを基本にして成りたっているのですから、聞き手の存在が最も重要な役割を果たすはずです。

その聞き手に対して、呟きを聞かせるのではなく、ハッキリと明確に問いかけるモダリティ表現こそが、対人的モダリティというわけです。


o)今日は雨が降るだろうね、と彼は私に行った。

p)こっちに来いよ。

q)ロックコンサートに行きませんか。


「ね」「よ」「か」といった終助詞を含めた、判断の問いかけや、意向の問いかけです。

そう、D類には独立文に現れる全ての要素が現れることになります。

n)のような直接引用が、発話者の発話内容をそのまま表現することを目的としていることは、D類への当然の帰結なんですね。

つまり、このD類と独立文の違いは、D類が他の文の成分になっているという、ただ、その一点だけの違いということになります。

従属節をその内部に現れる要素という観点から分類し、A類からD類へとレベルを上げていくことにより「文らしさ」という陳述度も高まっていく。

日本語の内部構造をわかりやすい配列順序に置き換えた、その南さんの研究は、現在も現代日本語学の中心的な研究として、その地位を保っているんですね。