前回に続き、文章表現の上達を目指して読み漁った本の中から、非常に有益だったと感じた一冊をご紹介します。
【「悪文」 岩崎悦太郎 編著】
伝わる文章の作法をテーマに、8人の著者の執筆による個々別々の章で編成された異色の文章読本です。
読み手がわからない、または、わかりにくい「悪文」が出来上がるのは何故なのか。その表現のいったいどういう所に問題があるのか。
たとえば、たった一つの助詞の使い方で悪文の仲間に入らなければならない場合もあるといいます。
悪文と言われるのが、言語表現上でどんな欠点を有するためであるのかを、本著では、世に出ている悪文の例文を用いて具体的に示されています。
どのような点に注意すれば悪文という範囲から抜け出せるのかを、具体的にピンポイントで指摘して見せてくれているんですね。
「修飾の仕方」という章では、性質や長さに違いのある修飾語の間では、その順序をどうするかによって、文の良し悪しが決まってくると断言されています。
例えば、
【両軍は軍縮を段階的に核兵器の削減に重点を置いて「進める」という方式をとることに意見が一致した】(新聞・原文)
という文の場合、あえて「 」で括り表示した「進める」にかかる修飾語は以下の三つです。
A)軍縮を (1文節) 進める
B)段階的に (1文節) 進める
C)核兵器の削減に重点を置いて (4文節) 進める
ABCともに、みな全て「進める」にかかるものであり、その限りでは同じ資格をもっています。
それなら、
【核兵器の削減に重点を置いて 軍縮を 段階的に 進める・・・】(4-1-1ー1)
と、文節が多い順に並べた、頭でっかちの文構成にしたほうが読みやすくてリズムがでます。
つまり、
【核兵器の削減に重点を置いて軍縮を段階的に進めるという方式をとることに両軍は意見が一致した】
とするだけで、文の意味がスッと入ってくるのです。
しかも、文中のどこにも「、」を打つ必要はありません。
原文のままでは、読み手は何度も読み直さなければならないのではないかと著者は指摘しているんですね。
なぜなら、本来なら「両軍は、軍縮を、段階的に、・・」と、3か所に、原文では「、」を打たなければならないのに、それさえ平気で無視されているからです。
まあ、「、」の必要性を意識していたなら書き直していたでしょうけど。
そして、この「進める」という述語こそが、この文(正確には従属節)全体を支配しているといえます。
そう、日本語の文というのは、付随する格助詞を伴うABCのような「補語」の全てを「述語」が支配して、統一しているのです。
大切なのは述語であり、「昨日は、大変だったね」「そうなんだよ。じつは、あれからまたゴネだしてさ」という日本語の談話では、お互いの了解が確保されているので、「誰が」という主語をわざわざ口にする必要はありません。
「大変だったね」「ゴネだしてさ」という談話こそが、絶対的に必要とされる意思表現の核であり、他にどんなに長い言葉が足されても後は単なる付け足しに過ぎないのです。
文章表現においても同様で、文意が自然に通るならば、特に主語の省略された文が最も好ましいはずです。
「両軍は」「私は」「彼が」という英語文のような書き出しを連発するのはもうやめませんかと、この著書では主張されているんですね。
「ワタシは、行きたいのです。清水寺というその場所に」と観光地で欧米人に尋ねられたとき、少しだけイラッとするのは、「教えてもらうのに、グイグイくるな~」と、感じてしまう日本人の勝手な性のためかも知れません(笑)
この場合の、「ワタシは」の裏に隠れている陰題は「ワタシが」なのだといえるでしょう。
基本的に「が」という格助詞は排他的意味を伴いますので、文章で繰り返される場合でも、書き手の深層心理が滲み出てしまった、「が」を伴う名詞に対しての強い思いが含まれていると想定できます。
だから、読み手は無意識にそれを読み取って、少しウンザリしてしまうのでしょう。
さらに、「文の切りつなぎ」という別の著者による章では、文豪たちによって執筆された名文章と言われる歯切れのよい文章には、「文章の音感」と呼ばれる一種の律動が存在するのだと説かれています。
「文章の音感」、それは美文調や、伝統的五七調・七五調などをいうのではありません。
一つ一つの「文」が有する良質の律動が流れるような連続性を生み出し、それによって、刃さきのように研ぎ澄まされた「文章」が編み出されるということです。
言うまでもなく、「文」というのは「。」で区切られた一つのセンテンスのことであり、その「文」の集まりこそが「文章」と定義されています。
つまり、律動感に溢れる「文章」を表現しようとするなら、「文」そのものに内在する構造の繁簡に対して徹底的にこだわらなければならないということなのでしょう。
また、この章では、悪文を例文とするのではなく、森鷗外や夏目漱石のような近代日本における代表的作家の名文の例示を用いて、「文章の音感」というものが、どのようなものであるのかが紹介されているんですね。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、つかのまの命を、つかのまでも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命がくだる。
あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心をゆたかにするが故に尊い。 (草枕)
名文の例として、漱石の「草枕」のはじめのほうの一部が紹介されています。
これこそが、天才・夏目漱石がとことんまで考えをめぐらせ、練りに練ったすえの文章だと後世に伝えられているんですね。
音感が文章をおおい、文章からあふれ出て、文と文の間を流れるように感じられると、著者は絶賛しています。
それでは、ここで勝手に、一つ一つのセンテンスについて修飾の仕方はどうなっているのか見てみましょう。
(文節の多い)長い修飾語と、(文節の少ない)短い修飾語があるときは、長い修飾語を前に持ってこなければならないという頭でっかちの原則的語順に、はたして、漱石の名文はなっているのでしょうか。
人の世を作ったものは 神でもなければ 鬼でもない。(4-2-2)
やはり 向こう三軒両隣に ちらちらする ただの 人である。(1-1-1-1-1)
ただの人が作った人の世が 住みにくいからとて、越す国は あるまい。(5-2)、(2-1)
あれば 人でなしの国へ 行くばかりだ。(1-2-2)
人でなしの国は 人の世よりも なお住みにくかろう。(2-2-2)
越す事のならぬ世が 住みにくければ、住みにくい所を どれほどか、(3-2)、(2-1)、
くつろげて、つかのまの命を、つかのまでも 住みよくせねば ならぬ。(1)、(2)、(1-2-1)
ここに詩人という天職が できて、ここに画家という使命が くだる。(3-1)、(3-1)
あらゆる芸術の士は 人の世を のどかにし、人の心をゆたかにするが故に 尊い。(3-2-1)、(5-1)
歴史的名文に対して恐れ多いのですが、あくまで機械的に原則的語順を重視して読むなら、気になるところは2か所でしょうか。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。(1-2-2)
つかのまでも住みよくせねばならぬ。(1-2-1)
このふたつの文は逆順なので、
あれば、人でなしの国へ行くばかりだ。(1)、(2-2)
つかのまでも、住みよくせねばならぬ。(1)、(2-1)
と、すればどうでしょう。