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日本語の文法を考える  「桜の花は咲いている」「それがどうしたの」

現代日本語の研究の中で、これまで最も精力的に行われてきた論争とはいったい何か。

それには、「ガ」と「ハ」という二つの助詞を、どのように使い分ければいいのか、というテーマがあげられるといいます。

というのも、この「ガ」と「ハ」の使い分けは、日本語を習得しようとする外国人の学習者たちにとって、理解することが非常に難しい学習項目であるらしいのです。

「桜の花「ハ」咲いている」と、「桜の花「ガ」咲いている」という文では何が違うのでしょうか。

また、それぞれの一文の中では、どのようにして語と語との関係づけがなされているのでしょうか。

その答えを非常にわかりやすく私たちに紐解いてくれるのが、この「日本語の文法を考える」(大野 晋)著 というベストセラーになった一冊です。

大野氏は国語学界の第一人者とされる文学博士で、戦争末期、連射される機銃掃射の危険の下を逃げまわっている間でさえも、日本の言語について、あれこれ思考されていたんですね。

出される著書の発行部数は、全て立て続けに50万部を突破し、私の手元にある「日本語の文法を考える」の一冊も、2017年、第54刷発行版になります。

既知と未知

すでに知っていること(既知)と、まだ知らないこと(未知)という、この二つを要素として文を組み立てるところに日本語の文の最も基本的な条件があると大野氏は説かれています。

そう、すでに知られているもの、つまり(既知)として扱われるものの下にくるのが「ハ」という助詞で、(未知)のものの下にくるのが「ガ」という助詞になるのです。

例えば、「地球ハ丸い」「人ハ眠る」という文の場合、「ハ」の上にくるものは既知として扱うので、誰もが当然知っているものがくることになります。

「地球」や「人」などは、時や場所を超越して誰でも知っている存在として扱われる対象です。

そして、その(地球ハ)の下に、(丸い)という説明が加えられることになるのです。

つまり、「ハ」は上のものを承けて、読み手に問いを提示し、一度そこで文を切断します。そして、今度はその下に説明を加えます。

物事の性質や真偽、当不当の判断を下す。そう、問いと、それに対する答え、その問答の間に入って読み手に区切りを提示するのが「ハ」の基本的性格なのです。

 

「故郷からは雪の便りが来た」「よそへは行かない」という場合、「故郷からハ(ナニガキタカトイウト)雪の便りが来た」「よそへハ(ドウカトイウト)行かない」という意味であり、「ハ」の下にその答えを加え、そして終結します。

さらに分かりやすい例が本書ではあげられていて、「江戸は神田の生まれだってねえ」という、いなせなセリフ、これを訳すと、「江戸ハ(ドコカトイウト)神田の生まれだってねえ」と解されます。

「生まれだ」を述語と取り、「江戸は」を主格と取ってしまうとおかしなことになるんですね。

「江戸は」は、「生まれだ」という述語に支配・統語されているわけでは決してないのです。

「江戸は」と「神田の生まれだってねえ」の関係は、あくまで(問と答え)、言い換えるなら(題目と解説)という、一度断絶されて再び結合した対等な繫がりになるんですね。

「ガ」の基本的性格

では、「ガ」の未知のものを承ける働きとはいったいどういうものかというと、目前で展開する動きを描写形にして表現するというのが、主なその役目なのだといえます。

「桜の花「ハ」咲いている」といえば、「桜の花ハ(ドウシテイルカトイエバ)咲いている」と題目に説明を加える文です。

ですが、「桜の花「ガ」咲いている」という表現は、目前に事実として、桜の花が咲いているのを発見して喜び描写している文なのです。

「ガ」を使ったここでは、桜の花は、「ハ」を使って話題として説明されているのではありません。

「桜の花が咲いていること」が一瞬にして認識されたのであり、それが描写されているのです。なにしろ、発見とは未知からくるものなのですから。

「春が来た!」「キャベツが安い!」、そうそれは、春を発見した喜びの表現、キャベツが安いじゃないかという驚きの表現なのです。

また進行形の場合でも、「観客たちは、妙に笑っていた」といえば、それは「観客」を題目として、それの説明として「妙に笑っていた」が加えられた形になります。

ですが、ガを使えば、「観客たちが妙に笑っていた」という、眼前で展開する人物たちの動きを描写する形となるのです。

つまり、ガは目前に進行している動作や事態をリアルにとらえ、それらがどのように進行するのかを未知の情報として提示するときに使用されるということです。

以前、話し相手が前のめりになって自分の話を聞いてくれているのに、急に、「それがどうしたの?」と言われたことがあって、腑に落ちないことがありました。

それ以来、ずっと意識の片隅に引っ掛かっていたのですが、この本を手にしたことにより、霧が晴れるように理解することが出来たのです。

「それ(ガ)どうしたの」「つまり、何(ガ)いいたいの?」と、あのとき言われたのは、それは、自分の発話に新しい情報が不足してたので相手が満たされずにモヤモヤしていたんだなと気づいたのです。

そう、もしまた同じような場面に出くわしたら、その時は「だから、何(ガ)言いたいのかというとね」と、新情報を与えてやればいいのだとわかったんですね。

さらに、「ガ」の根本的な特性は、ガの上にくる言葉とガとが一体となって、下にくる表現に対する条件づけをすることにあります。

条件づけをするというのは、下にくる体言や動詞や文表現などに対して、ガを含む上の部分が新しい情報を加えるものだということです。

例えば、   

(自分)ガ建てた(家)   

(お玉)ガ生まれた(時)、私はもう四十五で   

という二つの文の場合、「ガ」は「建てた」「生まれた」だけにかかるのではありません。

「ガ」は下の体言である(家)(時)までを統合する力を持っているのです。

どんな家なのかというと、自分が建てた家であり、それはどんな時だったのかなというと、お玉が生まれた時のことなんです、という情報が「新しく」付け加えられているのです。

2段構造

「ハ」文の「物事の性質や真偽、当不当の判断を下す」という役割は、ひとつの文というミクロな視点だけでなく、文の連続性から編まれた文章という纏まりにとっても非常に重要な意味を持ちます。

というのも、真偽や判断というのは書き手の主張したい内容と同じ意味合いを持ちますので、そこには書き手が読み手に最も伝えたい情報が含まれているということが多いのです。

それに対して「ガ」文というのは、淡々とコト・モノを述べるという、表現のあり方として事態の客観性に重きが置かれているので、発話者の主観性が反映されにくいと考えられます。

つまり「ガ」文は、「ハ」文が携えている表現主体が関わるモダリティ(陳述・主張)の領域には、踏み込むことが出来ないレベルのものなのだということが理解できるんですね。

「ハ」文と「ガ」文では文章表現の統語構造におけるポジショニングが、そもそも異なります。そう、階層レベルが全く違う次元のものになるんです。

「ハ」文という一つのセンテンスがトピックセンテンスとなり、問いを提示する。

それに呼応するかのように、客観的な「ガ」文たちが淡々と答えを導き出し、センテンスの固まりであるパラグラフ(段落)というものを構成していくのはないでしょうか。

文という単位も、段落、文章という展開機能も、それぞれが基本的には2段構造になっていて、その構造こそに、日本語の言語表現の本質的なモノが秘め隠れている。そんな気がするんですね。


そこで、落語家がよく使うという、くすぐりの分かりやすい例をひとつ、

 

 米が切れてる、薪が切れてる、味噌が切れてる、醤油が切れてる、塩が切れてる、ついでに電球が切れてるだって。なんだよもう、切れてるものばっかりじゃねえか。なにか切れてないやつァねえのかい。なに? 包丁は切れてない?

 

「包丁は・・」で最後に包括され、切れてるものと、ただひとつ切れてないものとの関係が明らかになる。だから、ここで観客たちは笑いだすのです。