こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

大通寺  西八条禅尼 源実朝と過ごした日々

京から鎌倉へ

享年28という若さでこの世を去ってしまった源 実朝(さねとも)。

その鎌倉幕府・第三代将軍のわずかな生涯に、より添うように生きた一人の女性がいました。

彼女の幼名は千世(ちよ)といい、出家後には、「西八条禅尼」(にしはちじょう ぜんに)と京の人々に呼ばれることになります。

千世の父は、大納言まで出世した公家の坊門信清であり、都の屋敷から実朝のもとへと旅立つ花嫁行列には垣根のような人波が出来ていました。

それは元久元年(1204)冬のこと、関東の武家たちに政権を奪われ、すでに十余年の月日が流れています。

見送る京の皇室や公家の人々の心中には複雑なものがありました。

というのも、泣き泣き故郷を出て、東方の武家に嫁に行く哀れな姫だと千世は同情されていたのです。

でも、この時の千世の心境は意外なものだったんですね。

そう、彼女はそんなか弱い女性ではなかったのです。常に行動的で前向きな姿勢で生きていく、その上、利他性を強く持ち合わせた優しい人柄もそなえていたのです。

そして彼女が実朝に嫁いだことで鎌倉の事情は大きく変わっていくことになります。

それは、朝廷と幕府の関係、京と鎌倉の係りかたが変わったと言ってもいいでしょう。

公武融合という思惑が根底にあった二人の婚姻ではあったのですが、実朝の温厚で周りの人すべてに優しいその人柄に、千世はいつしか魅かれていくようになります。

鎌倉の少し遅い桜が満開に咲き誇るなか、その下を寄り添うように歩く二人。

穏やかな春の空気に包まれている千世は、その幸せを全身で感じていたのです。

実朝にとってもその気持ちは同じであって、次第に彼は、千世とその実家を通じて京の文化に強い親しみを持つようになりました。

たとえば、平安時代、京の公家社会で大切にされたもの、それは「和歌」です。

歌が詠めること、上手に詠めるのかどうなのかということは非常に重要視されたのです。

言霊による政治

それは、この時代には言霊信仰というものが強く意識されていたからなのですが、歌とは最も有力な政治手段だと信じられていたのです。

日本人にとって歌こそが「神」を動かすための最善にして唯一の方法だと、公家たちは歌の道にのめり込んでいたんですね。

そして実朝は、その歌を詠むのが抜群に上手く、その才能は傑出していました。


大海の磯もとどろに寄する波  割れて砕けて裂けて散るかも

箱根路をわれ越え来れば伊豆の海や  沖の小島に波の寄る見ゆ


これらは実朝の「金槐和歌集」に載っている有名な歌で、万葉調のおおらかな歌風だと絶賛されています。

あの正岡子規も実朝の歌については、「人麿の後(のち)の歌詠み誰あらん、征夷大将軍源実朝」と褒めたたえているくらいなのです。

ですが、これら和歌というものに対する一連の思想に激しい嫌悪感を抱いていたのが坂東武者たちです。

リアリズム、そう現実主義というものを最も重要視する武士たちにとって、歌を詠むばかりで具体的に「行動」しない公家たちは軽蔑に値する存在だったのでしょう。

でも公家たちにしてみれば、自分たちが何もしていないなんて夢にも思っていません。

歌を詠み、歌集を編むことこそが彼らにとっての行政だったのですから。

自分たちの頭領であるはずの実朝が武芸に全く興味を示さず、それどころか、公家たちと一緒に和歌の世界にどんどんのめり込んでいる。

もはや御家人たちの怒りはピークに達していました。

そして元久2(1205)年、実朝と御家人たちの関係を、この後、最悪なものと変えていく決定的な出来事が起こりました。

京の後鳥羽上皇から実朝のもとへ「新古今和歌集」が贈られてきたのです。

歌集の贈呈なんて大したことないじゃないかと思われるかもしれません。ですが、これには大きな意味があるのです。

和歌というものに抱く互いの観念の相違を表象として、実朝に対し、都にいる上皇が今こそ鎌倉に革命を起こせとメッセージを送ったということなのです。

また、実朝の妻となった千世には姉妹がいて、そのうちの一人は後鳥羽上皇に入内して男子を生んでいます。

つまり、上皇と実朝は千世の実家を通して義兄弟の関係にありました。

源氏の貴公子だから実朝を連盟の盟主としていた鎌倉武士団たちからすれば、元々、こういった関係には不満を抱いていました。

そんな状況のなかで、さらに、実朝に対して反革命路線を促すようなこの上皇の振る舞いというのは、武士たちにとってもう絶対に許せないものだったのです。

大勢の目撃者のいるなかで

承久元(1219)年1月、大雪の降る鎌倉の鶴岡八幡宮で実朝は暗殺されました。

右大臣を拝命していた実朝は、その就任の式典を社殿で行ったのですが、その帰り道の参道で頭巾を被った3人の男に襲われたのです。

そのうちの一人が「父の仇を討つぞ」と叫びながら実朝に斬りかかり、傍にいた公家の源仲章も共に討たれてしまうことになります。

なにしろ「右大臣」の就任式なのですから、現場には、京からこの儀式に参列していた多くの公家たちが並んでいました。

その大勢の目撃者がいるなかで事件は起こったのです。

犯人は前将軍の頼家の遺児で出家していた公暁(くぎょう)という青年だと言われているのですが、頭巾で顔を完全に隠していたので、現場にいた人たちでその顔を見たものは誰一人いなかったといいます。

そして、犯行に及んだ青年はその直後に、絶妙のタイミングでもって三浦義村の館で討ち取られてしまっているんですね。

このように事件の真相は闇に包まれているのですが、ハッキリしているのは、実朝と傍にいた「公家」の源仲章が、大勢の「公家」たちの前で斬殺されたという事実です。

そうまるで、「幕府を支配しようとする公家ども、このありさまを、その目によく焼き付けておけ」と脅しているかのように。

追憶の夫 実朝

京を旅立ってから15年、実朝を亡くした千世は黒髪を落とし出家しました。

そしてもはや無縁の地となった鎌倉から京に戻り、実朝の菩提を弔うために西八条に遍照心院大通寺を建立したのです。

出家し、西八条禅尼と呼ばれるようになった彼女は、以後50余年、84歳の長寿を保ち一筋に夫であった実朝の菩提を弔いました。

大通寺には晩年に彼女が書き残した自筆の置文が伝わっているのですが、そこには、半世紀を経ても変わらず実朝への思いが込められているのがわかります。

清和源氏の聖地といわれる六孫王神社、その北側に位置する広大な敷地に大通寺はあったのですが、明治になって東海道線の開通に伴い移転しました。

現在は近くの大宮九条という場所にあり、山門の前から見上げると、すぐそこに東寺の五重塔がそびえ立っているのが見えるのです。