京都案内  こうへいブログ  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

激動の時代  新田義貞と勾当内侍 ふたりが過ごした日々

なんのための鎌倉殿ぞ

正慶2(1333)年5月、後醍醐天皇の勅命による攻撃によって鎌倉幕府は崩壊し、北条氏は滅亡しました。

最後は、足利尊氏、新田義貞といった幕府側の屋台骨ともいえる有力御家人の裏切りによって、その息の根を止められたのです。

鎌倉幕府も後期になると、元寇(モンゴルによる日本襲撃)や御家人の貧窮化など、さまざまな問題を抱えていました。

「なんのための鎌倉殿ぞ」という言葉が世に流行するくらいに、崩壊寸前の頃、幕府は御家人たちの信頼を無くしていたんですね。

つまり、本来武士の権益を保護すべき幕府がその機能を全く果たせなくなっていたということです。

確かな血統

足利、新田ともに、清和源氏の血を引く源氏の正統につらなる名門であり、足利尊氏、新田義貞のふたりの先祖は、もとをたどっていくと兄弟にあたります。

源氏宗家は三代将軍・実朝で断絶したために、本家嫡流は足利・新田ラインのほうへと継がれることになります。

そこからさらに二者択一されたとき、「兄」源義重の血を引く新田ではなく、「弟」源義康の子孫として足利家が最も格式の高い嫡流として選ばれたのです。

だから、幕府を支配していた北条家と足利家は代々縁を結んでいて、尊氏が妻にめとったのも執権・北条守時の妹でした。

また、尊氏が北条に反旗を翻したこの正慶2年の時点で、29歳の尊氏が従五位上・前治部大輔であるのに対して、33歳の新田義貞は無位無官でした。

先祖は兄弟だったのに、この時点で、ふたりには決定的な差が出来ていたのです。

頭領としての血統に申し分なく武士たちの信望を集めていた尊氏は、全国に檄を飛ばし、多くのものたちを味方につけます。

もともと武士というのは反朝廷意識が強かったのに、こぞって後醍醐側についたのは、やはり、それだけ尊氏の影響力が強かったということです。

ですが、実際に鎌倉政権に止めを刺したのは、他でもない新田義貞でした。

義貞を総大将とする大軍勢は利根川を越え、武蔵国から南下し、怒涛の如く一直線に鎌倉を目指しました。

このとき、北上して来た幕府軍と分倍河原で衝突。義貞軍は見事に幕府軍を蹴散らします。

その怒涛の勢いはとどまることを知らず、すぐさま藤沢へと到着し、鎌倉まで目と鼻の先と迫ったのです。

鎌倉というのは三方を山で囲まれ正面は海という、大規模の水軍でも用意出来なければ非常に攻撃しにくい天然要害の地です。

でも、義貞は僅かな干潮のタイミングを狙って、稲村ヶ崎から回り込み、浜伝いに鎌倉中央部に突入したんですね。

最後の執権・北条高時を含む生き残っていた一門は東勝寺に入り自刃しました。殉死した兵たちも数百を数えたといいます。

後の世でヨーロッパ諸国から絶賛されることになる鎌倉幕府、人の努力があたり前に報われる世の中というものをこの国に初めて作り上げたその偉大なる幕府は、ついにここに、150年にわたる歴史に幕を下ろしたのです。

ふたりの出会い

鎌倉攻めをみごと成し遂げた義貞は京に上り、後醍醐天皇をはじめとする都の人々に拍手喝采で迎えられました。

そして、そのまま皇居を守る武者所の長官として京で日々をおくることになります。

そんな平穏な日々の中、ある晩秋の夜に義貞が宮中の警護にあたっているとき、ふと、艶やかな琴の音色を耳にします。

そこには、スダレを巻いた縁側で一人琴を奏でている勾当内侍(こうとうのないし)がいました。

その彼女の姿にすかっり魅了された義貞は、一晩中、後宮の庭に呆然と立ち尽くすありさまだったといいます。

「華やかによそわれた顔は、秋の雲間の月が河面の水を照らすかと思われた」と、「太平記」では内侍の容姿をこのように語っているんですね。

また、彼女の父である経尹(つねただ)は世尊寺流の名に恥じない能筆であり、内侍の実家は名筆・藤原行成の血統を継いだ名家の一族でもありました。

その内侍と義貞が互いに惹かれ合っているのは、宮中の人々誰もが取って分かるようなさまでしたが、すでに内侍は後醍醐帝の後宮の一人だったのです。

でも、後醍醐天皇は18人の皇妃に36人の子を生ませた帝です。内侍ひとりに強い執着心を持っているとはとても考えられませんでした。

二人の思いに気付いていた後醍醐帝は、その仲が上手くいくようにさりげなく身を引いたようです。

後から思えば短くはかない幸せな日々でしたが、二人にとっては、帝の粋なはからいによって得た何よりも大切な時間だったのです。

主役の交代

そんななか、政権が交代した鎌倉に北条の残党が攻撃を仕掛けてきました。

最後の残党討伐のために足利尊氏が京を出発し鎌倉へたどり着くと、あっという間に敵を片づけてしまうのですが、なんと尊氏はそのまま鎌倉に居座り続けたのです。

すぐに京に戻るようにという後醍醐帝の勅命も全く聞き入れません。そう、尊氏はこれ以降、後醍醐帝の命にまったく従うことはありませんでした。

もともと後醍醐帝と尊氏には、鎌倉幕府を倒す思惑に全く違ったものがあったのでしょう。

武士ではなく、あくまで天皇親政を柱とした絶対専制政治が後醍醐帝の目指す政治であり、それに対して尊氏は、武士が中心となる幕府政治自体は否定するものではなく「首脳陣」の交代を望んでいたのです。

つまり、後醍醐帝が目指したのは体制のまるごと根本的な変革であったのに対し、尊氏は同体制での主役の交代を成し遂げたつもりだったのです。

結局、後醍醐帝の新政は短期間で終わりをつげ、足利家が支配する世と変わっていき、やがて室町幕府の成立がなされていくことになります。

すでに律令体制下に戻れるわけもなく、武士という存在をここまで必要とする国となっていた以上、それに代わる軍事力を担保できなければ、その存在を無視した新政の継続などとても無理だったのでしょう。

時代の流れに翻弄された新田義貞も、窮地に陥っていた後醍醐軍のなかで、勢力を蓄えるために越前国を目指していました。

ですが実際に北陸に行ってみると敵方の守護・斯波高経が勢力を伸ばしている状況下にあり、苦戦を強いられてしまいます。

最終的には越前・藤島城にいる高経との戦いで新田義貞は戦死しました。

わざわざ少数の手勢で城の搦め手から攻めようとして、配置されていた敵の弓隊と遭遇してしまい、背中から撃ち抜かれてしまうのです。

義貞が北陸へ向かう際に、勾当内侍は琵琶湖岸の堅田まではともをし、そこで一人、義貞の帰りを待っていました。

ですが、しばらくしてそこに届いたのは義貞の悲報と、「都へいつか・・・」と書き残された彼の手紙でした。

勾当内侍は二人の思い出を胸に、髪を下ろして尼となり、嵯峨野の奥にある往生院にこもったのです。