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禅の言葉 人間、その無限に向上するもの  政治と宗教

政治と宗教のつながり

禅宗という思想を本格的に日本に伝えたのは、建仁寺を開いた栄西(えいさい)でした。

「禅」そのものは、最澄を祖とする比叡山・延暦寺で四宗兼学(円・戒・禅・密)のひとつとして、すでに平安時代には伝えられていたのだそうです。

延暦寺で学んだ栄西も、四宗の中から「禅」だけを選択し、徹底的に習得できるように宋へ渡っています。

多くの方法論の中から「禅」だけを選択した栄西。

見事、その教えをこの国に広めることが出来たのは、卓越した政治的能力が彼にあったからだと今に伝わります。

当時、天台宗、真言宗といった平安時代初期から存在するいわゆる旧仏教は国家鎮護の名のもとに朝廷の権威と一体となっていました。

それに対して、新興宗教である栄西の臨済宗は、同じく新興勢力である鎌倉幕府という武家政権に接近し、その「国教」になろうと動き始めました。

偶像を拝むのではなく、もともと人は心の中に仏を抱いているのだという教えを持つ禅宗は、リアリズムを重んじる武士たちの肌にしっくりきたのでしょう。

日々体を鍛錬し心を磨くことを当然とする武士たちと、禅という厳しい自力修行を重んじる宗派が結びつくのは、もはや自然な成り行きともいえたのです。

武士政権による絶対的支持

栄西の人間的魅力と経営的手腕はいちはやく幕府と武士たちの心をとらえ、鎌倉幕府の絶対的支持を得ました。

正治2(1200)年、北条政子の帰依を受け鎌倉に寿福寺を建てた栄西は、そのわずか2年後に、ついに京都に建仁寺を建立しました。

そして都に拠点を確保したその後には、東大寺大勧進職の後任に就き、さらに、法勝寺の八角九重塔の修繕責任者に命ぜられるなど、困難だといわれていた国家事業さえも、次々と成し遂げていくことになるのです。

のちに建仁寺も京五山の第三位となり、臨済禅の禅僧は武士政権の顧問としての立場を確保していくことになります。

五山というのは、幕府政権がその住職を任命する禅寺であり、奈良時代にあった官寺を新しくした寺格制度のことなのですが、禅宗といってもすべて臨済宗の寺であって、あの道元を開祖とする曹洞宗の寺は一つも入っていませんでした。

苦悩の日々がまるで嘘のように

道元は栄西の高弟子である明全(みょうぜん)から臨済禅を学んでいました。つまり栄西の孫弟子のような存在だったんです。

ですが、栄西の臨済禅が国家権力と深く結びついていることに、やはり道元は納得がいかなかったのです。

本来、禅というのは個人の修行の問題であり、国家権力と上手くやっていくなんてことは全くナンセンスだと感じていたんですね。

そこで、どうしてもその矛盾を払拭できない道元は明全の了解を得て、貞応2(1223)年、宋へと渡ってしまい、ひとり独自路線を歩むことになります。

そして、入宋したことによって悩み続けた日々がまるで嘘のように視界が広がり、生涯の師である天童如浄(にょうじょ)に出会うことが出来ました。

天童如浄は宋の大日山天童景徳禅寺の住職であり、「身心脱落(しんじんだつらく)」こそが禅の根本であり、仏教の神髄だと言っています。

精神や身体へのこだわりから離れた境地、それこそが身心脱落であり、それを達成するために必要な唯一の方法が「只管打坐(しかんたざ)」、つまり、ひたすらに坐禅することなのです。

そう、坐禅こそが、仏教の開祖である釈迦が悟りを開いたときに行った方法であり、釈迦以来の方法として正しく伝えられたものだという教えです。

禅宗の開祖は、インドの伝説的僧侶である達磨(ダルマ)ですが、6世紀頃にいたという実在の人物です。

サンスクリット語でボーディーダルマ、漢訳されて菩提達磨というのが正式な名であり、シルクロード経由で唐に渡り彼は禅を広めました。

また、達磨は仏教の開祖である釈迦から28代目の存在であり、一度も途切れることなく師から弟子へと27代に渡る真の仏教を継承しているのです。

つまり、釈迦以来、達磨を通して、二祖、三祖、そして六祖から分かれた法統の末のルーツが天童如浄ですので、その弟子である道元はその法統を継いでいることになります。

だから、自身が得た「身心脱落」は釈迦以来途切れることなく継承されてきたのであるから、まさに正法(正しい教え)であり、我こそがその釈迦以来の継承者なのだというのが道元の主張なんでしょう。

無常を梃子にして

 

「潜に世間の無常を悟り、深く求法の大願を立つ」、これは道元が遺した言葉です。

父は朝廷の実力者であった久我通親、母は関白・松殿基房の三女・伊子という最高貴族の両親から道元は生まれました。

ですが、父の通親を3歳のときに亡くし、わずか5年後に、今度は母・伊子を亡くすという不幸に見舞われます。

8歳という幼いころに孤児同然の悲境におちいり、普通なら、悲しみのあまり感情をなくした様な状態になっても不思議ではないところを、道元は、逆に無常を梃子にして求法に乗り出すのでした。

このつらい体験を決して無駄にせず、無常を+エネルギーととらえ、極めて高い価値に転換させていったんですね。

 

人にとって、失意のとき、挫折のときは同時にまたとない飛躍の機会ともなる。

失意や挫折がその頭上に降り注いだ時、たじろがずにその事実を直視することが出来れば思わぬ視野の転換がもたされる。

そして、その転換こそが必ず次の飛躍へとつながる。

たった一度の人生、前向きに捉えないでどうする。

 

まさに現世の重視であり、無限に向上する人間能力の肯定を説く道元。

彼にとって何より大切なのは、いま自分が生きているこの世だったのでしょう。