松永久秀「所司代」
天文18(1549)年、阿波国の戦国大名・三好 長慶(みよし ながよし)は、将軍・足利義晴を京都より追放しました。
実質的に洛中の支配権を握っていた長慶でしたが、初期の頃の権限内容については史料がほとんど残っていないため、よくわかりません。
ただ、家臣である松永久秀を「所司代」に任命したことから、洛中の治安権が中心であったのではと推測されています。
天文22年ころから永禄3(1560)年にかけて、その支配力は揺るぎないものへと強化されていき、その永禄3年には、長慶一族と松永久秀に対する朝廷からの贈位任官が急速に進められました。
ですが、この頃、三好長慶は京ではなく摂津・芥川城に住居し、必要に応じて入洛していました。
京都支配の実権をにぎりながらも、完全な意味での政権の支配者には、なり切っていなかったのです。
長慶が選んだ場所
長慶には強い軍事力の基盤がありました。それは、3人の弟が支配する阿波・讃岐・淡路の3ヵ国です。
長弟の三好之康は阿波という大国を治め、その下の弟は讃岐の十河家を継いで十河一存と名乗り、さらに第3の弟は安宅家を継いで洲本城で淡路一国を支配していたのです。
これに加えて、長慶自身は和泉堺を基盤として豊かな経済力を持ち、摂津では多くの国人領主たちにも支えられていました。
ですので、この経済基盤を重視する長慶は、京都よりも摂津・芥川城のほうを活動拠点に選んだのです。
ここに、王朝を抱く京都を中心とする全国支配を構想していた織田信長の思想と、決定的な違いがありました。
信長や秀吉とは異なり、思想の次元がまったく違うので、せっかく京都を押さえながら積極的な施政を展開しなかったのです。
裏切りの思想
そして、この後すぐに長慶と3人の弟たちの連携は、松永久秀の陰謀によって次々と切り崩されていきます。
久秀の讒言によって、最も懇意にしていた弟の之康と長慶は不和になり、そのタイミングを見極めたかのように、弟の之康は六角義賢に討たれてしまうのです。
十河一存もそのあと病死し、長慶の嫡子・義興も急逝しました。
さらに、義興は松永久秀に毒殺されたのではないかと噂が流れたために、ほとんどウツ状態になってしまった長慶は、今度は第3の弟である安宅冬康を飯盛城に攻め滅ぼしてしまうのです。
そして、2ヵ月にはその飯盛城で、長慶自身が懺悔の念を抱いたまま病死することになります。
三好の家督は十河一存の子である義継がつぎますが、あざ笑う松永久秀の掌中にその実権は移っていたのです。
足利義輝 初夏に去る
永禄8(1565)年5月、本拠地の阿波に保護していた足利義栄を次の将軍にするために、松永久秀は三好義継をかつぎ出し、ついに将軍・足利義輝のいる二条御所を攻めて討死させます。
ですが、これは幕府の政治や京都の支配に、何らかの改革をもたらそうとする思想に支えられたものではありませんでした。
義輝を排除し、懇意にしている義栄を将軍にすることによって、みずからの領国経営を豊かにして私腹を肥やしたいだけだったのです。
松永久秀も全国支配の構想は全く持っておらず、京都に対する施政など考えてすらいなかったのでしょう。
なぜなら、自身の経済的な利潤を追求するなら、圧倒的に京都よりも堺が有利であり、事実、松永久秀はそのように動いていたからです。
京都・堺・博多といった都市を、全国規模の上で有機的な結びつきとして、俯瞰的に把握しなければならない。
まず、大状況を把握していきながら徐々に中状況、小状況の核心へと、焦点を絞っていくかのような観点の捉え方が必要なのだ。
信長や秀吉なら、こう考えたでしょう。でも、長慶や久秀にとっては、京都や堺はまったく別個のものでしかなかったのです。
この後、大和・河内では、足利義栄を奪い合う小競り合いの戦いがはじまります。
三好長逸・三好政康・岩成友通、いわゆる三好三人衆と松永久秀との闘いですが、それは、長慶を慕っていた三人衆が、久秀に復讐するための内紛以上の意味はもっていなかったのです。
つかの間の栄光
それから、約3年の将軍の空白期間があり、永禄11年2月、足利義栄は第14代将軍、その職に就きました。でもそれは、ほんの、つかの間の日々でした。
そう、もうすぐあの男がやってくるのです。
「うつけもの」と呼ばれながら、自分よりも巨大な力を持つ敵を、つぎつぎとなぎ倒してきた嵐をよぶ男。
対面するすべての人々を緊張させる、その若き武将が美濃から上洛する日は、もうあと数ヵ月後にせまっていて、それは同時に、義栄のほんの僅かな将軍職の終焉を意味していたのでした。