もうひとつの伏見城  リバーサイドの城郭 月の色をもらって

川面に映える名月 指月城

伏見山の西南に、「指月(しげつ)の森」と呼ばれる小さな丘があります。

そこは、宇治川を臨む風光に恵まれた場所で、大坂と京都をおさえる重要な要衝でもありました。

川面が映しだす月の色をもらうために、豊臣秀吉はこの地に指月・伏見城を築きます。

文禄3(1594)年8月、工事はひと区切りつき、伏見城は祝儀に訪れる大名たちで溢れていました。

淀城の天守閣と矢倉が解体されて伏見城へ移されたり、滝の座敷と呼ばれる豪華な会所も造られて、各地より名石や古塔が集められるなど、まさに秀吉の芸術境といえる巨城がここに完成したのです。

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そしてこれに伴い、秀吉の意をくんだ大名たちによる大規模な都市構造の改新が伏見城周辺で行われていました。

たとえば、前田利家は、本丸東側に「御舟入」と呼ばれる河港の築造と、槙島堤の造成に着工しています。

これは、巨椋地区にそそいでいた宇治川を、槙島堤によって北に迂回させて「御舟入」に流れさせるものです。

また、毛利秀元は、淀川堤を修築し、枚方の対岸にお茶屋を建て、秀吉が大坂と伏見の間を往還するときの休憩所としています。

さらに、上杉景勝は、向島から小倉に至る堤を築かせて巨椋の水面池区を遮断し、そこに奈良へと続く大和街道を整備しました。

つまり、景勝の手によって人工的に造られたのが巨椋池であり、昭和7年に埋め立てられるまで、湖のような巨大な池の姿がそこに存在していたのです。

あっという間の夢のTONIGHT 

慶長元(1596)年、豪華絢爛を極めた指月・伏見城の本丸御殿に、明の副使として沈惟敬(ちんいけい)が下見にやってきました。

大いに歓迎する秀吉は城内を誇らしげに案内します。青貝や螺鈿が散りばめられた階段を三層の天守閣まで登り、風光明媚な伏見南部の景色を見せたのです。

沈惟敬は以前にも、秀吉に名護屋城の黄金の茶室で接待されていましたが、それ以上に、この伏見の風景には目を奪われ見惚れたと称賛しました。

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ですが、わずかその数ヵ月後、この贅のかぎりを尽くした夢のような名城は跡形もなく倒壊しました。

ドーンという大きな音ともに、天地が揺らぐ大地震が畿内を襲ったのです。

このときの地震の被害は、当然伏見城だけにとどまらず、伏見の大名屋敷もほとんど大きな被害を受けます。

また洛中でも、東寺の五重塔は傾き、三十三間堂はゆがんで、方広寺の大仏殿も仏像も破壊されました。

まさに地獄絵図のような夜の京の街に、秀吉たちも呆然と立ち尽くすしかなかったのです。

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秀吉 終焉のレジデンス

しかし、これにめげない秀吉は、2日後には伏見城の再建に取り掛かります。

再建した場所は、指月城から約1キロメートルほど東北の位置で、前よりも60メートル高い標高110メートルの木幡山一帯でした。

わがままに、ただ早く再建させたかったのか、秀吉は神仏にさえ悪態をつくありさまで、規模も数倍のものに計画された新たな城は、昼夜ぶっ通しで大工事が始まられました。

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甥の関白・秀次が切腹した後に空屋となっていた聚楽第の殿舎や、大和・吉野の比蘇寺の三重塔をはじめとして、前回よりもいっそう多くの寺社建築群を解体した建築資材を伏見城に運ばせたので、工事は急速に進みました。

翌慶長2年の5月には早くも本丸及び天守閣が完成して、秀吉は秀頼とともに早々と入城しています。

新しく造られた城は木幡山・伏見城と呼ばれて、完成した翌年の慶長3年に、この新たな伏見城内で秀吉は病によってその生涯を閉じ、二度と帰らぬ人となったのです。

 

 

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