豊臣家により創建され徳川家によって再建された寺
文禄3(1594)年に豊臣秀吉の側室・淀の願いによって、彼女の父である浅井長政と祖父・久政の追悼の寺として養源院は建てられました。
戦国期の北近江の大名であった浅井長政は、妻・お市の兄にあたる織田信長によって猛攻撃を受け滅びました。
義理の弟とはいえども、謀反を起こした長政を信長は決して許さなかったのです。
この時の信長の怒りがどれだか凄まじかったのかが分かる、あるエピソードがあります。
正月の岐阜城で織田家の祝宴が行われたときのことですが、なんと、長政と久政の頭蓋骨はそろって金銀泥で彩られ、祝勝の宴会の座興にさらされたというのです。
信長は浅井家に全幅の信頼を寄せていたので、逆に、裏切られたときのショックは相当なものだったんですね。
そして、この追悼のために建てられた養源院は、豊臣家の滅亡とともに元和5(1619)年に焼失してしまうのですが、2年後に、淀の妹すなわち長政の三女・お江によって再建されることになります。
お江は徳川二代将軍秀忠の妻であり、後水尾天皇の妃として入内した和子の母親です。
ですので、この再建は実質上でいうと、徳川家によって執り行われたことになるんですね。
現在の養源院は規模こそ少し小さくなりましたが、主要な部分はこの時とあまり変わっていません。
徳川家への忠誠をたたえた血天井
玄関から本堂に入ると有名な血天井があります。
これは、伏見城の戦いの際に城で自害した徳川家の家臣・鳥居元忠らの血がしみ込んだ廊下の板を使用した血天井です。(このとき伏見城は、徳川家が占領していました)
鳥居元忠は家康の腹心中の腹心で、これは徳川家への忠誠をたたえるものです。
位牌殿には、お江や秀忠および歴代の徳川将軍たちの位牌があります。この寺は長政や久政だけではなく、歴代徳川将軍の菩提を弔う寺なのです。
この位牌殿の奥に内仏殿がありますが、実は、この二重構造が養源院の注目すべきところです。
内仏殿には淀と秀頼とお市の位牌があります。
つまり、この寺に対するお江の真意はどこにあるのかというと、表に浅井家・徳川家を弔う寺であり、裏に姉の淀と甥の秀頼を弔う寺なのだということがくみ取れるのです。
そして、内仏殿にお市の位牌を置いたのは、二人だけでは心細いだろうと気丈な母を伴わせる、姉思いの優しいお江の心遣いがあったからです。
数奇な運命に翻弄されたお江が、本当に弔いたかった人は、父・母・淀・秀頼の4人だったのではないでしょうか。
だからこそ、表向きには、お江自身がはっきりと徳川家への忠誠心を示さなければならない。
それには伏見城から移した板の血天井が一番適当であると考えたのでしょう。
町絵師、宗達が描く白象と唐獅子
養源院の見どころは何といっても俵屋宗達の残した杉戸絵でしょう。
宗達は江戸前期の画家で、京都の裕福な町衆の出身とみられますが、詳しい伝記はほとんど明らかになっていません。
本阿弥光悦とは繫がりがあり、光悦の書のための料紙装飾が作品として知られています。
現在では琳派の祖としてあまりにも有名ですが、当時、このような将軍ゆかりの寺の障壁画を町絵師だった宗達が描くことが出来たのは、光悦の紹介があったためなのです。
特に母子2頭の白象図は見事な作品で、日本美術史上の最大の傑作のひとつといわれています。
胡粉の白に黒のラインが効いていますが、これは墨を塗っているのではなく、厳密に計算し胡粉を塗り残し杉戸の色を活かしています。
これにより象の質感やシワなどを表現する、まさに天才画家の仕事です。
杉戸絵のモチーフに使われた象は普賢菩薩の乗りもので、獅子は文殊菩薩の乗りものです。淀や秀頼の鎮魂のための作品を、お江は宗達に描かせたのでしょう。