本能寺の変  しかめっ面の英雄 最後の言葉

春の陽が地上に降りそそぐ穏やかな日、出陣する織田信長軍の傍らの畑で、農民がスヤスヤと居眠りをしていました。

これを見た、信長の顔色をうかがう木下秀吉は、「こいつらのために合戦にいくのに」と激怒し斬りかかろうとします。

ですが信長は、「いや、俺の国では農民がのんびり眠れるようにしたいんだよ」とそれを止めました。

日本人の幸せ

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若いころの信長は城下町をほっつき歩いていましたが、そこから同世代の人々が何を望んでいるのかを、懸命に探っていました。

その答えは明白でした。「戦争が終わった世で平和に暮らしたい」「豊かな生活がしたい」「平等に扱われたい」

こういう世論をつかんだ信長は、すでにこの頃から日本の平定を最優先思想とするのです。

平和な世でなければ話にならない、その他のものは何ひとつ成立しない。

このように「日本人の幸せ」を視野に入れたパブリックな意識をもった武将は他にはいませんでした。

武田にしても上杉にしても、名将とよばれた彼らの最大のチカラは、人格であり、人望・人徳という要素であって、領土拡張・土地至上主義を基盤とした狭い範囲のヒエラルキーを崩せなかったのです。

それに対して、信長の人事管理・組織管理は「恐怖」を基調にして行われたので、人望・人徳を讃えられないのは当然であり、信長自身もそんなものに全く興味なかったのでしょう。

少数の側近を除けば、関わった相手には例外なく嫌われていたのかも知れません。

命尽きるまで目指したもの

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明智光秀に謀反を起こされ本能寺で命尽きる信長。その時、どれくらいの関係者に消えてほしいと思われていたのでしょうか。

滅ぼされた大名の遺族・遺臣はいうまでもないのですが、叡山を焼き討ちされた天台宗や、数万の門徒の命と本願寺を奪われた一向宗などの、反信長・武将と手を組んでいた、当時は武闘派だった宗教勢力たち。

京都を追放された足利将軍・義昭と、それを保護する形勢不利状態の毛利氏。

信長の四国政策の転換により、完全にはしごを外された長宗我部氏。

なによりも朝廷は、この時期の信長を不気味に感じていました。

実現間近だった安土城の行幸における天皇の御座所が建設中だったのですが、なんと、その場所が安土城天守より見下ろされる位置に建てられ始めていました。

また、天皇の大権のひとつである改暦を信長が冒そうとしていることなどから、日本の政治形態を根底から覆そうとする振る舞いに恐怖を抱きはじめていたのです。

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そして、信長の家臣たちとて、この暴君を恐れずにはいられませんでした。

佐久間信盛や林道勝は、特別な重臣であったにもかかわらず、力及ばず政策に失敗したために、ぼろ布のように棄てられます。

柴田・明智・丹羽・滝川らの重臣たちも、自分たちが苦労を重ねて斬り取って収めた畿内と近国の土地が、信長の身内に奪われるような形になっていくのです。

そして誰からも狙われる

服従したかのようにみせて、内心では恨んでいる。信長の周囲は、そんな面従腹背の人間ばかりだったのです。

もはや、誰が謀反を起こしても不思議ではありませんでした。それが、たまたま光秀だったのかも知れません。

いや、むしろ人格者であり多くの人々に尊敬されていた光秀は、信長を取り巻くすべての関係者たちに後押しされるような状況下にあったのではないでしょうか。

ここまで嫌われるのも一種の才能かもしれません。

「いい加減にしろ」「やりすぎだよ」「この恨みはらさでおくべきか」

信長という名を聞くことさえも嫌な人たちで溢れかえっていたのです。

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でも、それがいったいどうしたというのでしょう。

誰にも愛されていないことなど百も承知の信長は、いつかは「高ころびにあをのけにころ」ぶことを覚悟していました。

天正10年6月2日未明、軍兵に本能寺を包囲され、近習の森蘭丸から「明智が者、謀反」と知らされたとき、「是非に及ばず」と、信長は落ち着き払ってそう言いました。

そう、謀反であることにも、実行者が光秀であることも、いっこうに驚いた様子を見せませんでした。

「やむをえないな。やはり、少し走りすぎたかなぁ」信長はそう言いたかったのです。