雁金屋の3兄弟
徳川家の娘に生まれ皇室に入内した東福門院和子。
朝廷と幕府の平和の架け橋となったその偉大な皇后は、延宝6(1678)年、帰らぬ人となりました。
彼女に最もひいきにされていた幕府御用達・老舗呉服商の雁金屋(かりがねや)の商運は、これを機に傾きはじめます。
もちろん、大富豪・雁金屋の商いすべてが崩れ去るわけではありませんが、もっとも売り上げシェアを確保していた部分がなくなったという現実は、皆にとって精神的なダメージが大き過ぎたのでしょう。
経営者である尾形宗謙は、もともと丈夫な体ではなく床に就くことが多い人でしたが、隠居は出来ませんでした。
なぜなら宗謙の3人の息子たちは、揃いもそろって未熟で頼りない者ばかりだったからです。
長男は藤三郎、次男は市丞(光琳)、三男は權平(乾山)のだんご3兄弟です。
放蕩息子たちの生きざま
長男の藤三郎は3人のなかでも特に色男で、とにかくしゃべくりが上手く、細かいことは気にしない大柄な性格でした。
その羽振りの良い振る舞いは、色町で知らない者はなく、藤さまと呼ばれて女たちからキャキャとモテはやされました。
そして、酒と色に酔った藤三郎が一晩で使い切る銭は尋常ではありませんでした。
さすがに、この度をすぎた藤三郎の放蕩ぶりには宗謙もあきれはて、ついにこの息子を勘当します。
市丞や權平は慌てて父にほどこしを頼みこみ、藤三郎もひらに謝罪しましたが、ついに許されませんでした。
「店の者たちが懸命に頑張っているのに、お前たちの、その生きざまはなんだ」と父は涙を落していたのです。
それから、藤三郎が家に帰り家督を継ぐことが出来るまで3年の月日を要しました。
ですが、床に臥せた宗謙は、この長男に店を継がせるということを不安に感じ、死ぬまで安心できないほどの苦しみを感じていたのです。
余裕のかたまり 滲み出る才気
それならいっそ、次男の光琳に継がせればいいのにと世間は思いますが、この光琳こそが長男をはるかに超える遊び人だったのでした。
「酒場でダバダ」と夜を遊び、「お前にチェックイン」した女性と、朝になると「勝手にしやがれ」と別れる毎日を光琳は繰り返していました。
光琳は藤三郎ほど雄弁ではなかったのですが、人をひきつける愛嬌があり、そのにじみ出る才気と味のある語り口は、誰にも忘れえない印象を相手に与えるのです。
持って生まれた華があり、芸ごとは人々が魅了されるほど達者であり、能に関しては役者も驚くほどの域に達していました。
なにより、天性の画技は、漢画大和絵を少し習っただけで、独自で見事な筆さばきを我がものとしていたのです。
染物蒔絵の意匠の考案をもっとも得意とし、京の塗師たちからの依頼が殺到し、その生み出した模様は洛中で必ず評判になるほどでした。
でも、それは光琳を本気にさせるものではなく、気が向かなければ一切筆をとらなかったのです。
光琳の遊びぶりは際立って鮮やかだった。その場にいるすべての人たちを昂揚させ驚かせ感嘆させた。
そう、そのきらめきを放つ振る舞いは、当時の成り上がりものの新参者たちが遊行三昧におぼれるのとは、天地ほども素性が違っていました。
光琳という人物は、生涯そういう伊達っぷりを発揮した男であり、とうてい呉服屋の主人におさまる性格ではなかったのです。
頼むぜ兄貴
貞享4年6月、父宗謙は67歳でこの世を去りますが、3人兄弟にそれぞれ莫大な遺産をちゃんと手配していました。
有難い親心に感謝する3人でしたが、いくほどの月日も経たぬうちに、これらの遺産を費消してしまう息子たちなのでした。
遊里通い、芝居見物、茶の湯遊びと散財を続ける光琳は、遺産を使い切るだけではなく、方々から借金をかさね、諸道具・反物類の質入れ売却などを繰り返しました。
この頃、家伝の光悦・硯箱や俵屋宗達の屏風も売り払われたのです。
このまま行けば破綻は間違いないという状況下でしたが、それでも光琳は何ら思うことなく、陽気で戯れ話に浮かれていました。
焼き物でようやく生計を立てていた弟の乾山は、さすがにこれでは兄貴は大変なことになると、必死の思いで光琳を説得にあたります。
そうか、もう俺はそこまで追い込まれているのかと、光琳は目を覚まし画業への道をゆくことをようやく決意します。
しばらくして、光琳模様は京女の衣裳を艶やかに彩る流行りの意匠となっていました。
茶染めの渋みから一転して、多彩な染色の小袖が現れはじめたころで、光琳の図案はその中でも際立って光りを放っていたのです。
技の巧みもさることながら、なにより図取や形の意表の面白さが抜群の評判でした。
小袖に直に描いて欲しいという注文までが殺到し、光琳小袖という名称すら京の街に出始めたんですね。
ここまできたら踊り続けるしかない。光琳の描き出す世界は京都中から求められ、扇子・掛け軸・屏風などの作品群は瞬く間に完売し、狩野・土佐はどこにいったといわれるほどの興隆ぶりとなったのでした。
大堰川を流れる光琳の花
ある春の日、光琳と乾山は、皆と一緒に町衆が集まる嵐山へ花見に出かけました。
裕福な町衆たちは、華麗な蒔絵の什器をひろげて、思いおもいに花の下で宴を楽しんでいました。
尾形兄弟の一行が来たなと、どんな食器を用意してきたんだろうと、町衆たちはチラ見で注目しています。
でも、光琳たちが用意していたのは、粗末な竹の皮のお弁当でした。
「な~んや、天下の光琳模様もたいしたことないなぁ。もっと粋やと思ったのに。まぁ、世の中そんなもんか」と、町衆たちは含み笑いをうかべて見ていたのです。
じつは、お弁当の中身が食べられてしまった竹の皮の内側には、ある趣向が凝らしてありました。
案の定その内側には、びっしりと純金が貼りつめられていて、その上から光琳による銀泥の桜の絵が描かれていたのです。
食べ終わったその豪華な竹の皮を、尾形家の人達がいっせいに何個も何個も、側を流れる大堰川へと流しはじめました。
嵐のように舞い散る桜の花びらの中を流れてゆく光琳の描いた花たちは、そこにいた全ての人々を立ち上がらせ魅了したのです。