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もうひとつの二条城  織田信長の入京 あの鐘を鳴らすのはあなた 

信長が築造した二条城

二条城といえば、徳川家康によって築造された現在も遺る「京之城」をいいますが、京都にはもうひとつの「二条城」がそれよりずっと以前から存在していました。

それは、足利幕府最後の将軍・足利義昭のために織田信長が築造したかなり大規模な城郭です。

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永禄12(1569)年、内裏(御所)のすぐとなりにあった兄・義輝の邸宅あとに、義昭の住居として信長が再建工事を始めたのです。

現在の丸太町烏丸の北西一角の場所なのに、なぜ二条城と呼ばれていたのかというと、おそらく、平安京の二条坊あたりの場所だったからなのでしょう。

百数十体の石仏や、年号が刻まれている板碑・五輪塔、瓦、緑釉など、この場所でかなりの遺跡が発掘されていて、もうひとつの二条城の正確な位置を知るうえで、大変貴重な手がかりとなりました。

京童たちの不安

永禄11(1568)年、これまで尾張の一戦国大名にすぎなかった織田信長は、6万の大軍を率い、足利義昭を奉じて都へ入京します。

応仁の乱で破壊され、やっとのことで復興してきた町衆による自治的な町の運営は、危機にさらされました。

京の人々が大切にしてきた自由都市の運営が、信長によって終わりを告げることになるからです。

京都の市民の多くは、信長入京に対して大きな不安を抱いていました。

これだけの軍勢が入ってくるとなると、その中の軍兵の一部が、放火・強盗を行わないという保証はどこにもないからです。

実際に、「京中辺土、騒動なり」「終夜、京中騒動、説くべからず説くべからず」という記録も残っています。

そして朝廷も「入洛の件は聞いている、諸勢乱逆のないように細心の注意を払うように」と、信長に綸旨を示していました。

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遅れた信長の入京

でも、この京中の騒動や人々の不安な気持ちを、信長は充分承知していました。

だから、近江でわざと足ふみをして、予定日よりも入京日を5日間も遅らせることにしたのです。

なぜなら、信長の視界にあったのは、このとき京都を支配していた三好政康などの三好三人衆の動向だったからです。

勢力は衰えていたとはいえ、彼らの出方しだいで、京都市中が戦乱に巻き込まれるかどうかが決まります。

三好三人衆は、予定日になってもなかなか現れない信長に対して不安がつのり、「これは、皆殺しにされんのちゃうの」と勝手に最悪のシナリオを想定し始めました。

信長の率いる6万の大軍に恐れをなした三好三人衆は、すぐさま洛中の住居を捨てさり、山城・摂津・河内にあるそれぞれの居城へとたてこもったのです。

それで洛中は思いのほかに混乱を免れる条件が整い、信長は義昭を奉じて、ゆっくりと入京したのでした。

水面下での交渉

義昭と信長が同盟交渉を直接やり取りし始めたのは、永禄11年になってからでした。

それ以前から、信長の入京を水面下で促進していたのは、じつは朝廷だったんですね。

というのも、信長の父・信秀が支配していたころの尾張の国と朝廷は、以前から深いつながりがあったからです。

遡ること天文12(1543)年2月、父・信秀は、内裏・四面の築地やねの修理料として四千貫文の銭を献上しています。

このとき修繕費を献上できた大名は、ほんの数名しかいなかったので、信長が信秀の子であることを、正親町天皇は重々知っていました。

先にあげた朝廷から信長に示された綸旨には、信長入京を承認し催促する意図が含まれていたのです。

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義昭を奉じて入京してからすぐに、信長は早々と岐阜に戻るべく京都をあとにしています。

目的を果たしてしまえば、本拠地である尾張・美濃の治安のほうがずっと気がかりだったからです。

でも、京都には佐久間信盛・丹羽長秀・木下藤吉郎と5千の兵を残すことで、依然として自身の占領下であることを京市民に知らしめていたのです。

本国寺襲撃事件

永禄12(1569)年の正月、将軍・義昭のいた六条にある本国寺が、突然敵に囲まれました。

信長のいなくなったスキを狙って結束していた堺から三好三人衆が上京してきたのです。

ですが、藤吉郎たち優秀な留守番隊がこれをあっさりと蹴散らし、三好三人衆の軍勢は四国へと落ちのびました。

これを聞いた信長の怒りは凄まじいものでした。ふたたび入京した信長のもとに、近畿圏の国人衆8万人が一瞬にして集まったのです。

三好三人衆が兵を集結して軍備を整えるための場所を提供し、軍隊を編成する援助をした堺という地方自治体を、信長は決して許そうとしません。

堺という街を、そして、その全人口を消滅させようとします。8万人というと、当時の堺の全人口よりも多い人数でした。

堺の代表者たちは、三好には今後絶対に味方しないと信長に謝罪し、その罪の贖いとして銭二万貫を上納しました。

施工短縮のために鐘は鳴る

この本国寺襲撃事件があったことで、義昭のためには、もっと安全で堅固な居住宅が必要なのだと信長は考えました。

それで亡き義輝の古城を再建することに決め、日々に数千の人夫を動員して工事を始めたのです。

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総監督・指揮はもちろん信長でしたので、洛中の公家、寺院以下の知名の人々がひっきりなしに見舞いに訪れました。

義政が造った銀閣寺にあった「九山八海」という名石をはじめ、洛中・洛外のあらゆる名石・名木がこのもうひとつの二条城に集まり、庭の眺望の彩りに飾られたのです。

また、この工事が続いている間、信長は洛中・洛外の寺院の鐘を鳴らすことを一切禁止しました。

二条城内にひとつ鐘が用意され、これを信長が鳴らすことで人が召集・解散することの合図としたのです。

この鐘が鳴るやいなや、武士ならびに諸侯は部下を引き連れて、鍬を携え手車を押して走り集まりました。

すると、どんなに急いでも3年かかると言われていた工事期間が70日に短縮され、二条城は完成したのです。

 

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