恐怖の魔王
ときの有力大名たちを統制するために、将軍家の絶対的権力を確立するために「魔王」となった足利義教(よしのり)。室町幕府、第六代将軍です。
義教が将軍に指名される少し前に、日本で最初の土一揆は起こります。
さらに、関東公方の反乱、南朝の残党問題など、この時の幕府は様々な混乱状況を抱えていました。
この乱世を抑え込むために義教は強権を発動し、あらゆる改革を行おうとしていたのです。
その将軍・義教が、都の民衆たちに「恐怖の魔王」と恐れられるようになった決定的な事件が、永享6(1434)年の比叡山・延暦寺襲撃事件です。
意外や意外、延暦寺襲撃といえば織田信長の焼き討ちを想起されるかもしれませんが、信長のやったことは、じつは、義教の真似にすぎないのです。
信長の延暦寺襲撃は、義教の時代から130年後に起こった出来事であり、日本史上初めて叡山を武力攻撃したのは足利義教なんですね。
延暦寺というのは時の権力者から何度も襲撃されるような存在なんだなぁと、感じられる方も多いと思いますが、この時の僧侶たちというのは、学問や祈祷だけを行っているような平和主義の僧侶たちだけだったわけではありません。
たとえば、比叡山延暦寺のような規模が大きい寺院になると、領地として多くの荘園を維持しています。
それは門前である近江坂本などであり、ひとつの巨大利権にあたります。さらに近辺には関所をあちこちに設けて、通行料を確保していました。
それらから生まれる利益は当然大きな富となり、その財産を守るために僧侶たちは武装勢力と化していくことになるのです。
そして気づけば、武器を携帯した兵隊となった僧侶や、その利益を元に高利貸しとなった僧侶たちで叡山は埋め尽くされていたのです。
さらに彼たちは、宗教的権威という恐るべき武器も携えていました。気に入らないことがあると、神輿を担いで強訴を起こし、朝廷に脅しをかけていました。
もはや彼たちは、「大名」と同じ、いやそれを超越した存在です。現代の感覚でこのときの宗教勢力を捉えていたのでは、そこからは何も見えてこないんですね。
義教や信長は、延暦寺に軍事力を解体しろと要求したのです。天台宗という「思想」を弾圧したわけでは決してないんです。
とはいえ、京の鬼門に位置して、そこに抱かれる王朝及び日本国を鎮護する役目を果たす延暦寺の権威は相当なものです。
「われらに弓引くものは、天皇家に、さらには神仏に弓引くことと同じなのだぞ」と彼らは自負していたにちがいありません。
実際に、これまで、戦乱の中で寺社仏閣が戦場となり焼き討ちを受けたことは度々ありました。
ですが、延暦寺に火の粉がかかることは決してなかったのです。そう誰もが「延暦寺だけは、そこだけは」と決して手を出せない神域だったんです。
ですがこのとき、園城寺(寺門)を執拗に攻撃する延暦寺(山門)の僧兵たちに対して、義教の怒りはもはや頂点に達していました。
管領や守護大名たちに園城寺を助けるように命ずるのですが、神罰を恐れてなのか、誰ひとり義教のいうコトを聞きません。
このことが、さらに義教の怒りに油をそそぐ結果となったのです。
もはや収まりがつかなくなってしまったその状況に、配下のものたちは仕方なく山上に猛攻撃を仕掛けることになります。
そして叡山側は義教に謝罪をするために代表者の幹部数名が出頭するのですが、義教はこれを決して許さず、幹部たちを皆殺しにしました。
絶望し憤激した僧侶たちは、自ら根本中堂に火を放って焼身自殺を遂げたので、このとき、およそ600年の伝統を誇る延暦寺は灰燼と帰してしまったのです。
この衝撃的な事件は都の人々を恐怖に陥れましたが、さらに義教は、この比叡山の事件の噂を語ることを固く禁じ、その禁止令を守らなかった近江の商人たちを片っ端から捕らえ、首をはねたのです。
後花園天皇の父である伏見宮貞成王は、「万人恐怖」とこの状況を日記に記し、義教の行動は天魔の所業と強く批判しました。
そして叡山とは関係ない話ですが、その誰もが関わりたくないであろう「恐怖の魔王」義教に対して、ひるむことなく真っ向から直訴したある高僧がいました。
その人こそが、京都に本法寺を開創した、日蓮宗・日親(にっしん)上人です。
あまりにも酷い仕打ち
この日親という人は、とにかくエネルギッシュで個性の強い人物でした。彼の言動は非常に厳格で、妥協というものいっさい許さなかったのです。
妥協を許さない人物というのは、何しろ譲歩しないのですから、周囲の人々との摩擦が絶えません。
京都へ来る前、彼は肥前(佐賀県)の国、光勝寺という寺の住職でしたが、その頑な気性が災いして、本山の中山法華経寺に破門され肥前国から追放されます。
でも日親は、「たとえ本家であっても、ワシの言ってることが分からないなんて馬鹿ばっかりだな」と全く気にも留めてなかったのです。
活動の拠点を京都に定めた日親は、都へと舞い降り、次々と、裕福な町衆たちや町の商人たちの心をその説法で掴んでいきます。
商業都市として栄えはじめていたこの頃の京都には、商人たちの支持を得て法華経は街のなかにすでに根付いていました。
この頃、蓮如が浄土真宗の教線を広げていったのは、農民たちであり、それに対して法華経は富裕層の町衆を中心に商人たちに深く支持を得ていたんですね。
京都市中のど真ん中に活動拠点である本法寺を建立した日親は教線を拡大し続けました。そう、まさに本法寺は法華寺院の代表的な存在となっていきました。
そしてついに、「魔王」足利義教のもとへと乗り込み、「法華経」の信仰だけを信じ、他の信仰はすべて排するようにと訴えたのです。
義教は最初、「ほう~」といいながらも顔色ひとつ変えないで日親の話を聞いていましたが、やがて飽きてしまったのか、日親に帰るように命じます。
ですが、しばらくして日親が再び直訴に訪れた時、ついに義教の怒りは爆発しました。
義教の命により、庭に引きずりだされた日親は、なんと、まっ赤っかになるまで熱した鉄鍋を頭から被せられたのです。
この残酷極まりない仕打ちを、その苦難を必死に耐えて日親は生き延びたんですね。
それ以来、人々は日親を「なべかむり日親」と呼び、畏敬の念を抱くようになります。
では、なぜ日親はそこまでのリスクを冒して直訴におよんだのでしょうか。
これには法華経、そう日蓮宗の特徴が現れているのですが、その考え方に、まず時の権力者から教化していくのがこの国を良くするための近道だ、というのがあります。
それは、日本の都である京都に布教の拠点を置かなければならないという考えとまさにセットになった日蓮宗の理念でもあるわけなんです。
事実、室町時代のこの頃からの京都は、「法華経の巷(ちまた)」と称されるほど日蓮宗の勢いが強くなり、町人たちだけでなく、公家や武家の間にも教線は広がっていったのです。