隠元禅師がもたらしたもの
日本のなかの中国といわれている、宇治にある万福寺。
禅宗は臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(おうばくしゅう)と三宗ありますが、万福寺は黄檗宗の大本山です。
宗祖は、中国の明末の禅僧だった隠元隆琦(いんげんりゅうき)で1661年に開かれました。
明の様式をそのまま受け継いだ万福寺の境内は、今でも中国式の読経や作法が行われています。
そして、隠元禅師が仏教と共にもたらした食べ物や芸術の文化は、日本に深く根づいているのです。
隠元禅師は、1592年に福建省で生まれ、1654年に62歳で来日しました。
この来日のさいに禅師は、工匠や彫刻家など多くの人を伴いましたが、そのときに、建築や彫刻・文学・医学といった文化を、彼らは日本にもたらします。インゲン豆やスイカ・レンコンなどはその時に伝えられたものです。
禅師は1658年に江戸で、徳川四代将軍・家綱に会います。強烈なカリスマ性を禅師に感じた家綱は、山城の宇治領400万石をあたえ、万福寺を開くことを認めます。
また、後水尾天皇・大老酒井忠勝・堺を中心とする貿易業者などに強い信望を得て、関東にもその宗風は伝わりました。
天王殿にいるのはでっぷりお腹の布袋さん
三門の奥に天王殿がそびえていますが、これはラマ教寺院の影響を受けた建物です。
万福寺の信仰はもちろん禅宗ですが、その教えのなかには、ラマ教的要素も儒教的要素も取り入れられているのです。
天王殿にいるのは、金色に輝く、でっぷりお腹で笑っている布袋像です。
像の周りは色鮮やかな仏具や供物で飾られ、堂内の四方には四天王が配置されて、背面には禅宗の守護神の韋駄天像(いだてんぞう)が祀られています。
布袋は唐の時代に実在した人物で、布の大きい袋に理屈も知識もしまいこんで、町のなかに瓢々と暮らしていました。
吉凶や天気を予知して、いつも、迷い多き人々を救おうと、おデブなのに走りまわっていたそうです。
皆は、明るい顔と、少しデブっちょの健康そうな布袋の姿を見かけると安心しました。お医者さんでも、やせた人より太った人のほうが安心なのと同じ感じなのでしょう。
やがて布袋は、弥勒菩薩の化身といわれ、人々に崇め、やがて祀られるようになります。
布袋像とは、迷うことが多い日々の暮らしのなかを生きる人たちに、真の幸福をあたえる仏の大きな慈悲の姿なのです。