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一休寺  悲しみを詩に表現した一休禅師

呵々大笑して生き抜いた僧

「酬恩庵」一休寺。一休禅師が荒れ果てていた寺を1456年に復興させました。

禅師は、ここで後半生の生涯を送りながら、応仁の乱で全焼した大徳寺を見事に再建させ、81歳で大徳寺住職となった時も、この寺から通っていました。

とは言っても、京都市にある大徳寺から田辺市にある一休寺までは、車で行ったとしても一時間はかかる距離です。

それこそ、宿泊をしながらの道中だったにちがいないとしても、この長い道のりを頻繁に往復していたなんて、禅師という人は恐るべき持久力の持ち主だったのでしょう。

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一休宗純という人物の風狂、奇行は有名で、さまざまな伝説が流布しています。

その中から「一休関東咄」や「杉楊枝」などの本が生まれて、とんち小僧の一休像は定着したのです。

ですが、それは作られた一休禅師のイメージ像です。禅師の著書を読むと、筋の通らぬ世知辛い世の中を、呵々大笑して生き抜いた僧であることがわかります。

禅師は6歳で僧になり、若くして詩を学びます。22歳の時についた師の下での生活は誠に質素なものでした。食事も一日に二度とれなくて、食うや食わずで禅の修行をしました。

そして、師が倒れた時に、弟子たちの中でいちばん懸命に看病にあたったのは一休禅師でしたが、師の法統を受け継いだのは兄弟子で禅師ではありませんでした。

豪快な性格の持ち主ではあったのですが、兄弟子を差し置いて自分の我だけを通すような、そんな器量の小さい傲慢な人物ではなかったようです。

後小松天皇の皇子

そして、一休禅師が後小松天皇の皇子であったことを重視しなくてはなりません。

一休禅師の母は、北朝の後小松天皇に深く愛されていましたが、南朝の重臣の娘であったので、天皇の北朝側の身内に、あらぬ疑いをかけられ宮廷を追い出されます。

その母の悲運が禅師の出家の原因になりましたが、その悲しみを抱き生きてきた禅師は、その思いを詩に表現し優れた作品を後世に遺します。

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さらに注目すべき一休禅師の優れたところは、芸術家を見抜く鋭い目を持ち、その芸術家たちを非常に大切にしていたことです。

芸術家たちも禅師を慕い一休寺は芸術村と化していたといいます。

代表的な人物では、世阿弥のあとを継いで能楽の大成者になった金春禅竹(こんぱるぜんちく)、喫茶を茶道という芸術に発展させた村田珠光、天才画家の曽我蛇足などがいました。

これらの天才たちは、禅師の精神をわが精神として、さらに才能を開花させていくのです。