聖徳太子と秦河勝
推古天皇の時代603年、秦河勝(はたかわかつ)が聖徳太子から一体の仏像を賜り、それを本尊として寺を建立したことから広隆寺の歴史は始まりました。
広隆寺のある太秦(うずまさ)という地域は有力氏族である秦氏が支配していたのです。
始皇帝の14代の孫である秦河勝は、聖徳太子に厚く信頼され、太子が制定した「冠位十二階」の第二番目の階位である「小徳」に到ります。
これは、河勝の持っている経済力を太子が自身の政治に必要としていた為で、また、河勝も尊敬する太子の傍で常に守護にあたることが自身の使命だと心得ていたのです。
宝冠の弥勒・半跏思惟像
河勝が太子から賜ったという仏像は、「宝冠の弥勒(ほうかんのみろく)」といわれる半跏思惟像(はんかしいぞう)です。
昭和26年に国宝の第1号に指定された仏像で、多くの訪れる人たちのお目当ては、やはり、この弥勒さんになるんですね。
高さは約123センチ、台座に腰掛け、片足だけを下までおろし、細い胴体を斜め前に傾け、右ひざにひじを立てて、右手をそっと頬のあたりに当てています。
そして、顔には静かに笑みを浮かべていますが、これはアルカイック・スマイルと呼ばれています。
この微笑みに出会うために人々は広隆寺を訪れ、来世仏としての弥勒を拝することによって、永劫の未来に生きる希望を発見してきました。
その前に何時間もたたずんでいる人もいます。それは、平和で、温和な、すべてをゆるし受け入れてくれる親しみのもてる仏さまなのです。
太子が精神的に一番つらい時期には、河勝は常にそばに寄り添っていたそうです。
「窮地に追い込まれたときに何故か近くにいてくれる、それが本当の味方なのかな」太子はそう感謝しながら、微笑み弥勒を河勝に渡したのです。
もうひとつの国宝 泣き弥勒
そして、国宝の弥勒菩薩半跏思惟像はもう一体あります。泣き弥勒とよばれる「宝髻の弥勒(ほうけいのみろく)」です。
大きさは宝冠弥勒の4分の3くらいで、泣いているような表情から泣き弥勒とよばれ、今度は、河勝が太子のために仏師に造らせたものです。
この仏像はめずらしく天衣と裳裾(もすそ)の一部は皮で作られ、その上に漆が塗られています。
数多い仏像の中でも、そんなものを纏っている姿は見たことがありません。これは、木地・漆をつかさどった秦氏の職能と大きく関係しているのです。
寺伝の「絵縁起」によると、「この尊像は、常に光を放つ。この仏を尊崇する人々は必ず効を得る」とあります。
偉大なる人、聖徳太子も最後には、その理想は挫折し孤独になりさびしく天に帰りました。
河勝は太子の理想の挫折を、泣き弥勒を造ることによって表現し弔ったのです。