広大な敷地と宗勢を持つお寺
洛西・花園の地に広大な境内を持つ妙心寺。
三門・仏殿・法堂・方丈・庫裏が一直線にならぶ、その伽藍群は、町の生活空間と一体化するように佇んでいるんですね。
自転車で走り抜ける人や、ゆっくりと歩いてくる人。
500メートル平方の境内の中は、北の門から南の門まで、誰でも自由に通り抜けることが出来るのです。
日本の臨済宗には14派の本山が設けられています。
南禅寺・東福寺・天龍寺・建仁寺など有名な本山が多くあり、そのすべての系列を合わせると、約6000の寺院で形成されています。
そして、その内の半分以上である3500寺は妙心寺派の寺院であり、数でいえば、他の宗派を全てまとめ上げた総数と同規模の宗勢を、妙心寺派は拡張してきたことになるのです。
禅寺の理想的なありかた
妙心寺は、1337年に花園法皇の要請を受けて関山慧玄(えげん)が開山した、ささやかな寺院でした。
それが今では臨済宗を代表するような巨大な宗派の本山となりました。
応仁の乱のとき、妙心寺は大徳寺や天龍寺と共に灰燼に帰しましたが、その苦境にたった妙心寺を再興させたのは、第六祖の雪江宗深(せっこうそうしん)です。
雪江は建物を再建させただけではなく、僧のありかたや組織経営のありかたを細かく規定して、妙心寺の新しい発展の基礎をつくりました。
妙心寺を支える農民とのつきあいを何よりも大切にして法門を広げる。それなくして禅の発展はないのだと、彼はすべての門下の禅僧に命じたんですね。
また、なによりも寺院経営を重視し、厳重な会計制度を実施して、本山のみならず地方の末寺の経済も安定させました。
そして、それを受け継いだのが四派とよばれる景川・悟渓・特芳・東陽の4人の住持であり、四派は地方に末寺を増大させ、宗勢を飛躍的に拡大させたのです。
究極の金融システムと共済システム
大徳寺のように美にふけり茶におぼれることを、妙心寺は厳しく警戒しました。
金融システムや共済システムを構築して質素倹約を実行する。すると、いつの頃からか、京都の人々から「妙心寺のそろばん面(づら)」と呼ばれるようになったのです。
ちなみに大徳寺は「茶づら」、南禅寺は「武家づら」、東福寺は「伽藍づら」、建仁寺は「学問づら」と呼ばれているんですね。