ロウソクの明かりは、仏さまの智慧の光
京都駅前にそびえている京都タワーは昭和39年に建てられました。
古い都、伝統の街としての京都を大切に思ってきた人たちは、けったいな塔の出現を憎みました。
ですが、しばらくすると「よう見ると、お東さんにそなえられたロウソクみたいやな。まぁええか」と受け入れ始めます。
ロウソクの明かりは、仏さまの智慧の光。暗闇の中に道を光照らしてくれます。
お東さん、京都タワーの北側にある東本願寺は、親鸞聖人の心を受け継ぐ真宗大谷派本山です。
信長と本願寺の永き戦いの日々
多くの門徒を抱えた本願寺へ、弾圧を繰り返したのが織田信長です。
近世初期の頃の本願寺は、宗教的にも政治的にも絶大な権力を誇っていた為に、信長から警戒されていました。
当時の、顕如(けんにょ)というすぐれた法主は信長の攻撃にうまく防戦しましたが、勅命をうけ信長と講和します。
しばらくして、1591年に顕如が亡くなると、夫人の如春の指示によって長男の教如(きょうにょ)ではなく、末弟の准如(じゅんにょ)が跡継ぎに決まります。
本願寺の巨大な勢力を恐れていた徳川家康は、この組織を分断しようと考えていました。
そして、日陰にあった教如に烏丸七条の土地を与え、独立をうながします。
教如はそこに寺院を建立しました。本願寺の東にあることから、東本願寺と呼ばれついに本願寺は東西に分立しました。
ふたりの兄弟 末弟は秀吉 長男は家康
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、本願寺の跡継ぎふたりの兄弟に正反対の態度で対応しました。
長男の教如が出迎えた時には満面の笑みで手をとって面会しましたが、同じく出迎えた秀吉よりだった准如とは対面しようともしませんでした。
やはり、西本願寺は豊臣氏、東本願寺は徳川氏という権力者の意向によって造られたものといわなければならないでしょう。
その後、東本願寺は江戸時代に4度もの火事に見舞われ、現在の伽藍は明治時代の再建です。
その歳月は16年を必要とし、200万人もの人々がたずさわりました。
そして、世界最大級の木造建築である御影堂などが完成したのです。
東本願寺の外堀には、かって「バラバラでいっしょ」というスローガンが掲げられていました。
生き方も住む場所もちがう、けれども親鸞聖人への思いは皆おなじです。
「バラバラでいっしょ」、文字のその先を見上げると、巨大なおロウソクがそびえ立っていました。