伏見稲荷大社  荼枳尼天は白いキツネに乗って

朱く長き異界

商売繁盛の神様として有名な伏見稲荷大社。その朱一色の世界は、京阪電車・稲荷駅にも見られ、伏見という街のイメージと重なり合います。

稲荷という社名は、「稲生」(イネナリ)の「ネ」が抜けて「イナリ」となり、「リ」が「ニ」に転音して「荷」の字にあてたものです。

「イナリ」は「イナル」、「イ」とは大きく激しくという副詞で、「ナル」は鳴り響くという複合動詞の意味を持っています。

つまり「大きく鳴り響く雷」というのが「イナリ」のことであり、その御祭神は「穀霊神」なのです。

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背後にそびえる稲荷山。円錐形の神奈備であるその山上に雷神は降下し、伏見地方の田園に溢れるほどの清水を与えました。

その神々は稲荷大社・本殿に祀られていて、中央に宇迦之御魂神(うかのみたま)、右の間に大宮姫神、左の間に猿田彦神と、古くより都の人々の信仰を受けてきたのです。

白きキツネ

稲荷社の眷属(神の使い)は何故キツネなのか。稲荷とキツネはなぜに同一視されているのでしょうか。

それは、宇迦之御魂神、大宮姫神、猿田彦神の三神がすべて食物神であり、「御饌神」(みけつかみ)と呼ばれたから御ケツネ、キツネとなったといわれているのです。

また、稲荷信仰が真言密教と神仏習合したときに、密教で崇拝される荼枳尼天(だきにてん)と習合したことによって、荼枳尼天の使いである白狐が信仰の重要な意味を持つことになりました。

そう、平安時代の初期に、稲荷信仰は真言密教と深く結びつき広まることになったのです。

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稲荷社と東寺

天長4(827)年、嵯峨上皇より賜った東寺の五重塔を造営するために空海は大量の木材を必要とします。

大量の木材を手に入れるには何よりも巨木が適当であったので、太古から数多くの巨木が生い茂る稲荷山から伐採されることになりました。

空海の意思はすなわち嵯峨上皇の命であり、上皇が国家安泰・鎮護のための寺を建てると言えば稲荷社の神官たちも従わざるを得なかったのです。

ところが、その伐採によって神の怒りを買い、淳和天皇を病気にいたらしめたのだという占いが出て、タタリであるという託宣がありました。

その謝罪のために、朝廷は稲荷大社に従五位下の位を贈るのですが、このことによって稲荷信仰と真言密教は深く結びついて、やがて稲荷社は東寺の鎮守社となるのです。

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白狐に乗った天女

このように稲荷社と東寺の関係は古くさまざまな伝承があるのですが、特に注目すべきは、先ほど述べた荼枳尼天(だきにてん)との関係です。

インドに君臨する大母神カーリーの使いである荼枳尼天が日本に移入されたとき、その姿はキツネに乗った天女の形で現れました。

荼枳尼天は人の死期を知ることができて、その心臓を手にいれるのですが、それらを集めることによって人々の心を支配することが可能になるというのです。

人間の心臓のなかには「黄(おう)」というものがあり、それを掴むことのできる荼枳尼天はあらゆる願望を叶えてくれる存在です。

明治元年に廃仏毀釈・神仏分離の政策がとられ、日本中の神社が神道に統一されるまで、伏見稲荷大社の向かって左に御本山・愛染寺という真言密教の寺があり、多くの庶民の厚い信仰を集めていました。

この愛染寺の繁栄は荼枳尼天の呪術にたいする信仰にありましたが、つまりそれは、加持祈祷が行われたということです。

病気になるのは何らかの霊が乗り移ったのだと当時は本気で信じられていました。

病人に乗り移ったキツネの怨敵は、稲荷の神と結びつけられた荼枳尼天によって調伏され、ついに取り除かれたのです。

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伏見稲荷大社は京都市内での位置でいうと東南の方向にあるのですが、王城鎮護の神として、東北の位置にある祇園神社とともに、延久4(1072)年に「両社行幸」の例が後三条天皇によって開かれました。

時代背景としては、この頃から院政時代にかけて、上皇の熊野御幸が盛んに行われた為に、その道中の安全を祈願するという重要な意味合いを「両社行幸」は含んでいたんですね。

言い換えれば、それくらい天皇家からの崇拝を稲荷社は受けていたといえるのです。