こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

言葉の並べかたの話  きっとリズム感は出せるはず

たったひとつしかない係助詞 「は」

わたしたちが日本語で文を書こうとするとき、その語順は比較的自由に並べることができます。

英語の場合ですと、主語は原則として必ず文頭に置かれ、それに合わせてbe動詞や一般動詞の選択がされることになります。

つまり、語順を勝手気ままに変えることはできないんです。

一方、日本語ではあくまでも文末の述語が中心的存在になるので、名詞と助詞(後置詞)がセットになった補語を、述語にペタペタと貼り付けていくだけで文は完成されます。

だから、日本語の文では、「が」のついた主語が必ず文頭に置かれるなんて必要はどこにもないんですね。

ヒロシが 裕子に 花束を 贈った。

花束を ヒロシが 裕子に 贈った。

裕子に 花束を ヒロシが 贈った。

といったように、「贈った」という述語を中心としてどこまでも語順の並べ方は自由であり、「ヒロシが」という主語の定位置が別に決まってるわけではないんです。

では、「贈った」という述語にペタペタと張り付けられた「ヒロシが」「裕子に」「花束を」という3つの補語の格助詞を今度は「は」に変えて見てみましょう。

ヒロシは 裕子に 花束を 贈った。

花束は ヒロシが 裕子に 贈った。

裕子には 花束を ヒロシが 贈った。

このように、それぞれの格助詞が係助詞「は」に置き換えられると文法的な意味合いは全く違うものとなってきます。

「は」という係助詞が付けられた名詞は述語に付属する補語ではなくなり、「主題」となって今度は述語と対等な関係になるのです。

ヒロシは(どうしたのかというと)裕子に花束を贈った。

花束は(どう扱われたのかというと)ヒロシが裕子に贈った。

裕子には(どうしたのかというと)花束をヒロシが贈った。

たとえば、花束はヒロシが裕子に贈った。という例文をここから取り上げて分析して見ますと、

「花束は」 と 「ヒロシが裕子に贈った。」が相対関係「=」に変わったということになります。

「花束を」という言葉が「花束は」に書き変えられることで、「花束」を特別に取り立てて読み手に伝えたいという書き手の意図的な心理がそこに表現されることになるんです。

「は」が使われるということは、そこに書き手の意思や判断が無意識に表現されているということなんですね。

このとき「ヒロシが」「裕子に」という2つの補語は、あいかわらず「贈った」という述語に支配されたままで、「花束を」だけが「花束は」に姿を変えて、述語の支配枠を飛び出してしまったということなんです。

このように係助詞「は」は2つの顔を持っていて、「は」の裏には「が」「を」「に」「から」などといった助詞が深層されているということになるんです。

ここでは深く掘り下げませんが、上の「には」の例のように、「が」と「を」以外は、「には」「からは」「よりは」といったように同時に姿を見せることもあります。

また、係助詞と定義付けされる日本語の助詞は、もはや今では、「は」だけとなってしまっているんです。

それぐらい「は」という係助詞は、日本語のなかで特別な存在になってしまっているのでしょう。

だから、よく文法書なんかで「は」と「が」が比べられていることが多くみられるのですが、本来、そんな比較はナンセンスなんです。

「は」に隠されているもう一つの顔は「が」だけではなく、「を」「に」「から」「より」「から」といった格助詞たちも同じようにそれに値するのですから、「が」だけをピックアップして、「は」と対比すること自体がおかしな行為なんですね。

頭でっかちの尻つぼみ

ただ、ここからが肝心なのですが、格助詞が係助詞「は」に構文的に変わってしまったからといって、それを語順に反映させなければならないということではないんです。

その名詞が「は」を伴って「主題」になったのだから文頭に置かれてなければならない、書き手はそこを最も強調したいのだから最初に書かれていなければならない、といった理屈ではないんです。

なぜ語順を研究するかというと、それは全て、読み手に読みやすく読んでもらう為、ただそれだけの為なんです。

リズムを伴わない読みにくい文章を書いてしまうと、文章の中身がどうのこうという前に、読み取り行為自体を投げ出されてしまうんですね。

たとえば先に取り上げた、ヒロシは裕子に花束を贈った。という文を少し変えてみます。

ヒロシは入学してからずっと好きだった裕子に特別発注した花束を贈った。

音読してもらえればわかりやすいと思いますが、「ヒロシは」を文頭にもってくると非常にリズム感が悪くなってしまうのがわかります。

「特別発注した」の前あたりで言葉が詰まってしまう感じがするのではないでしょうか。ならば、これを次のように置き換えて並べてみましょう。

入学してからずっと好きだった裕子に特別発注した花束をヒロシは贈った。

いかがでしょうか。かなり、読みやすくなったはずです。

センテンスにリズム感を出そうとするなら、ただ単に、連体修飾の長さだけを意識することが大切になります。

最も伝えたいことなのだから、主題の「は」が出てきたのだから文頭に持ってこないと、なんていう理由では決してないんです。

入学してからずっと好きだった裕子に(4文節)特別発注した花束を(3文節)ヒロシは(1文節) 贈った。

(4―3―1)というように、ただただ、文節のかたまりの長いものから先に並べていくことだけがリズムをとるのに重要になってくるんですね。まさに、頭でっかち尻つぼみに身をまかせるリズム感の取り方です。

たとえ「主題」であったとしても、リズム感を重視するなら、1文節の長さしか持ち合わせない「ヒロシは」という文節は最後に置かれなければならないのです。