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京都観光案内 それをわかりやすく伝えるために奮闘する文章研究の日々

ナニワの求人広告  ④伝説になった奇跡の契約  

日本のバブル経済の崩壊は、1990年1月の株価暴落から始まり、一般的に1991年2月頃に景気後退へ転じたといわれています。

哲夫さんが求人情報誌「ドーダ」を発行・販売する「求人センター」に入社したのは、まさにこの頃です。

彼が求人掲載の依頼を受けるために大阪で勤しんでいた期間、それはちょうど、日本の企業が揃って衰退していく時期とリンクしていたんですね。

まだ20代前半だった哲夫さんは、株価暴落に伴うこの国の景気の後退を、経済の現場で肌で感じ始めることになります。

企業は中途採用の計画を次々と取りやめていき、電話帳のようにぶ厚い求人情報雑誌の「ドーダ」は日に日に薄っぺらくなっていきました。

また、「求人センター」という会社の雰囲気も悪くなっていき、退職者も続出したんですね。

なにしろ、「求人センター」の現場には中途募集の情報が溢れているわけですから、好条件の待遇や、もっと楽で稼げる仕事を探すことは容易かったのです。

まわりがそんな状況に変わっていくなかでも、あいかわらず、求人の募集掲載を企業からもぎ取るために、テレアポや飛びこみ訪問を毎日続けていた哲夫さんは、あるとき、体にある異変を感じ始めたといいます。ちょうど入社して1年後くらいのことでした。

脳からドーパミンが溢れてくるというのでしょうか、妙に腹が座り、相手の懐にいきなり飛び込まなければならないという抵抗感が薄らいでいくのを感じ始めたらしいのです。

変に高揚しはじめるということではなく、表情はわざとらしくない自然な笑顔になり、体の動きはキビキビと、言葉は流暢に勝手にスラスラ流れ始める、そんな感覚です。

自身に対する訪問先の会社の受け答えもこのころからずいぶん変わって来たように感じたといいます。すんなりと話を聞いてくれる担当者のかたも多くなってきていたようです。

厳しい状況下でありながらも、契約実績を伸ばし始めた哲夫さんは少しづつこの仕事を楽しめるようになっていくんですね。

そして、哲夫さんはこの後、「求人センター」という会社の歴史のなかで、まさに伝説と言ってもいい契約を取ってくることになります。

 

「ドーダ」の広告枠を販売する営業員たちは、ライバル誌「Bging」に掲載された求人募集広告をチェックして、その募集先に電話をかけることがよくあります。

その会社が掲載依頼した「Bging」の求人広告に応募者の反応がなければ、「ドーダ」を試してもらえないかとお伺いをたてるんですね。

その日、哲夫さんも「Bging」に掲載されていた大阪ミナミの「小林広告社」(仮)というデザイン事務所に電話をかけています。

「あっ、いつもお世話になっています。わたくし(求人センター)の緒方と申しますが、社長様いらっしゃいますでしょうか」

電話に出た先方の女性アシスタントは「えっ、あ、はい・・・」と、なにやら不思議そうな感じの受け答えです。

すると、受話器ごしに先方のやりとりが聞こえてきたのです。

「社長、求人センターから電話です。なんか、お世話になってますって言ってますよ。どうします」

それを聞いた先方の社長は「なに~、お世話になってます。どういうことじゃい」と返している様子がうかがえます。

そう、哲夫さんがアポイントを取ろうと電話をかけた先は、「Bging」を発行する業界最大手「リ〇ルート社」の下請け会社のデザイン事務所だったんですね。

「リ〇ルート社」のような超大手企業ともなると、印刷工場やデザイン事務所など、ほとんど子会社といってもいいような多くの下請け企業を抱えています。

哲夫さんがアポを取るために見たその求人広告自体が、自社の求人募集ために、そのデザイン事務所が自ら制作したものだったんです。

普通は「Bging」の広告内容をザッと読んで、子会社らしきところはチェックして外してしまうのですが、その広告はビジュアルを重視して作られていた広告だったので、哲夫さんは読み落としてしまっていたんですね。

「しまった~」と思った哲夫さんは、うまく取り繕って電話を切ろうしたのですが、なんと、小林社長が電話に出てきました。

「はい、もしもし社長の小林ですけど、求人センターさんがうちに何の用かな。(広告を)見てもらったらわかるように、うちは「リ〇ルート社」のほとんど子会社的存在の広告社ですけど」と言われ、社長の後ろにいる事務所スタッフたちが失笑している様子までもが聞こえてきます。

恥ずかしさがこみ上げてくる哲夫さんは慌てて電話を切ろうとしたのですが、思わず気持ちとは裏腹のコトバが口から出てしまいました。

「それで、応募者のかたのご反応はいかがだったのでしょうか。グラフィックデザイナーは人気なので、さぞかし多くのお問い合わせがあったんでしょうね」的なことを言ってしまったらしいのです。

すると、小林社長は「うっ、いやまあ、おかげさまでね。多くの人が面接にきたんやけど、あんまりこれといった人材がね。いなくてね」

「って、ええ、何?どういうこと、子会社ってわかってるのに、なんで電話してきたんや」と、社長はなにやら訳がわからない様子で困惑しています。

小林社長のモノの語り方や、声の雰囲気に何か魅力を感じた哲夫さんは、別に広告なんかもらえなくてもなにか業界のことを聞ければいいと思い、「え~い、いったれ」と、「社長、ぜひ、一度お伺いさせてもらえませんか」と切り出しました。

すると、「え~、君も変わった人やな、うちに来てもしょうがないのに。まあ、ええわ。「ドーダ」の営業なんか会うこともないし、一度遊びに来たらええわ」と、小林社長から約束を取りつけたのです。

さっそく、翌日に哲夫さんは小林広告社を訪ねます。事務所は雑居ビルの一室にあり、社長を含め10人くらいのスタッフたちがいました。

「失礼しま~す」と哲夫さんが入ると、事務所内は俄にザワツキはじめ、作業をしていた全員がいっせいに哲夫さんに注目します。

なにしろ、今皆で力を合わせて「Bging」の広告を制作しているところなのに、ライバル誌「ドーダ」の営業マンがいけしゃあしゃあと入ってきたのですから。

「お~ホンマに来たんかいな。冗談のつもりやったんやけど。まあ、こっち座りいな」と、小林社長は出迎えてくれました。

人の相性とは本当に不思議なもので、ふたりはあっという間になにやら意気投合し、哲夫さんに起こる日々の営業先の出来事に、小林社長はいたく興味を持たれたらしいのです。

小林事務所はもちろん営業テリトリー内にあったので、それからチョクチョク哲夫さんは顔を出して遊びに寄っていたそうです。

それから、数か月した頃のことです。小林社長と食べようと哲夫さんがたこ焼きを買って事務所を訪ねると、社長が突然にこう言いました。「よっしゃだすわ」。

「えっ」と哲夫さんは「いやいいですよ。そんな高いもんじゃないですし、食べてくださいよ」と断ります。

「いや、ちゃうがな。たこ焼き代の話とちゃうねん。広告や、「ドーダ」に募集広告だすゆうてんねん。また、一人辞めよってん」

「いやいや、やめてくださいよ。社長の無頼な生き方がすきで、いろいろなんか教えてもらいたかっただけで、顔をだしてたんです。そんなんは、いいいんですよ、ほんまに」

「いや、ちがうねん。最近、「リ〇ルート社」の若造がえらそうに指示しよんねん、ムカムカしてな。こっちはお前、もう50半ばやぞホンマに。「ドーダ」に広告載せたらあいつらビックリしよるで。おもろいやんか、なあ」と、子供のように社長は楽しそうです。

「いや~でも大丈夫ですか。そんな話聞いたことないですよ。よけいイジメられませんか」

「かまへん、かまへん。なんぼのもんじゃい。それにな、「ドーダ」の広告でどんな人が(面接に)くるのかに、賭けてみたいところもあんねん。お前とこの編集も結構ええ仕事してるのは、おれもプロやから見たらわかる。じつは、それも大きな理由や」と、小林社長は哲夫さんにラフ原稿を持ってくるよう依頼しました。

そして、哲夫さんは小林広告社から掲載契約を受けることになったのです。

めぐりあわせが良かったのか、「ドーダ」で応募してきた若き未経験者の人は、その後、小林広告社の戦力になるまで成長されたのことでした。

お世話になっているほぼ親会社的存在の得意先、そのライバル先に仕事を発注する下請け広告会社なんて聞いたことがありません。

「Bging」の広告を制作している会社から、中途採用の求人広告の依頼を「ドーダ」で受けた営業マンはおそらく哲夫さんただ一人でしょう。

小林社長は、そのえらそうな若造から烈火のごとく怒られ、詰め寄られたそうですが、「甥っ子が求人センターの営業やってて、ノルマいかへんて泣いてたから、助けたったんや」と言い訳して収めたそうです。

哲夫さんが小林社長に色々と教わりたいと強く思っていたのは本当の話で、当時の「Bging」の原稿クオリティーは他社を一切寄せ付けないほどの高レベルのものだったんですね。 (つづく)